88号
「TVの収穫と映画の豊作」
■TVアニメ4月期の収穫は京アニの『響け!ユーフォニアム』がこの『3』で9年がかりの完結をみたこと。『3』は殊に回を追う毎に話も絵も充実度が増して見事だった。あの事件で草創メンバーを失いながらも貫いた誠実に拍手。
■『死神坊ちゃんと黒メイド』が同じく3期で大団円を迎えたのも良かった。呪いの元凶である魔女との因縁も綺麗に解消。欲を言えば坊ちゃんとアリスの可愛い新婚生活も見てみたかった。特典映像で付かないものか。
■世間的には『無職転生Ⅱ』『この素晴らしい世界に祝福を!3』『鬼滅の刃 柱稽古編』に注目が集まる中、新顔では『怪獣8号』。OPから悪くない作りで、キャラデザが西尾鉄也だけに『NARUTO』風味のキャラと動き。怪獣デザインをスタジオカラーが担当したのもいい。原作漫画が途中で失速気味なのが気になるが二期も発表されている。
■気になるといえば『ゆるキャン△3』はこの3期から制作がエイトビットに変更(1・2期はC-Station)、キャラデザも変わって魅力減衰。描き込んだ料理場面が売りだったのに見る影もなく残念。スタッフの大事さを思い知る。
■奇妙な味で注目されたのが『終末トレインどこへいく?』。5Gの起動によって変貌した世界(?)で女子高生が西武池袋線に乗って池袋を目指す。途中の椎名町駅ではトキワ壮的な男女が立ち塞がるというトンデモエピソードも。
■奇妙といえば望月智充監督作『怪異と乙女と神隠し』は最終話で『火垂るの墓』さながらの展開があり、疑問と共に戦慄。
■ガールズバンドもの『夜のクラゲは泳げない』は収穫の1つ。今の風景の中で居場所を求めてあがく少女たちを実感を持って描く。
■バンドものではタイトルもズバリ『ガールズバンドクライ』も。苦みを持った描写が好評だったが、個人的に全編3DCGの動きがふわふわ定まらないのが気になった。
■1月に始まり、この6月でひとまず24話を終えたのが『ダンジョン飯』。猫娘イヅツミ登場からの盛り上がりが半端でなく(センシが耽美なエルフに変身した回が最高!)すっかりダンジョン飯ロス。次期が待たれる。
■続く7月期のお気に入りは『ラーメン赤猫』。猫たちが人間相手に営むラーメン店。硬い3DCGでラーメンが美味そうには見えないが、癒される。アニメにおいて動きがいいに越したことはないが、必須条件ではないという見本のような作品。主題歌も近頃には珍しく内容を歌うもの。時々脳内で口ずさむ。
■話題性で言えば『逃げ上手の若君』。アニメ作品に珍しく南北朝時代が舞台(原作は松井優征)で主人公は北条時行。クローバーワークス制作だけに絵と動きは抜群だが、色彩設計の彩度が高すぎて私にはつらい。話も時代背景ゆえに残虐度が高く個人的にきつい。
■作画なら「マケイン」こと『負けヒロインが多すぎる!』が抜群。A-1 Picturesの本気を見た。色も背景も目に優しい。
■『小市民シリーズ』は『古典部シリーズ』と同じ米澤穂信の原作。神戸守監督だけに演出は手堅く見せるが、原作由来か脚本ゆえかイラッと引っ掛かる部分あり(1話でのいちごタルトの扱いなど)。『古典部』は京アニだったが『小市民』の制作はラパントラック。
■約半世紀前の作品が中東オイルマネーでリブートな『グレンダイザーU』は福島ガイナックスを前身とするGAINA制作。総監督・福田己津夫、脚本・大河内一楼、キャラデ・貞本義行、音楽・田中公平と一流スタッフが集合だが、出来は芳しくない。難しいものだ。
なお、福島ガイナックスは、1984年に創立し2024年に破産したガイナックスから2014年に派生した地方会社。
■他に話題作は『推しの子』2期に、「ロシデレ」こと『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』、タイトルとPVのインパクトが最大だった『しかのこのこのここしたんたん』(よし、間違わずに打てた)か。
今期のエルフ枠(笑)は『エルフさんは痩せられない』。
出身県群馬が舞台なので毎週観るが色付き輪郭線が時々つらい『菜なれ花なれ』。
「令和の米騒動」と言われるご時勢に米の力で戦うのが『天穂のサクナヒメ』。豊穣神ならこの米不足を何とかしてと言いたくなる。
■特撮のニチアサにはもう全然ついていけてないのだが、『爆上戦隊ブンブンジャー』第27話で島本和彦が本人役で出演、自らデザインした敵キャラに襲われる回はしっかり録画。(余談だが島本和彦の夏コミ新刊『トリプルックバック』は傑作)。
ウルトラの最新シリーズ『ウルトラマンアーク』は快調な滑り出し。
■映画に移って、今年は豊作。
筆頭は藤本タツキ原作の『ルックバック』。凄腕アニメーターとして業界に名を轟かす押山清高が自ら監督し、脚本・キャラデザ・実質的な作画監督を兼任して作り上げた覚悟と鎮魂の物語。何があっても漫画を描き続ける姿に話題騒然となった原作に更にアニメ独自の視点を加えた圧巻の58分間。ひとの手で描くことの凄み。通常、原画と動画に分かれているアニメ工程を原画マンが動画の仕事も兼ねる「原動画」という、おそらく日本のアニメ史上初の肩書きで臨む少数精鋭の技。原作者は東日本大震災の衝撃と無力感から生まれたと言うが、誰しも京アニ事件が浮かぶだろう展開に涙。声に河合優実、吉田美月喜という旬の俳優の起用もはまった。
■漫画原作なら浅野いにおの漫画を黒川智之が監督した「デデデデ」こと『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』も。前章を3月、後章を5月の分割上映。脚本は吉田玲子。幾田りらとあのが声優キャストに混じり、主役たちを好演。
■『化け猫あんずちゃん』も漫画(いましろたかし)原作。掲載誌は『コミックボンボン』。これをアニメ作家の久野瑤子と実写畑の山下敦弘が独自展開で映画化。制作はシンエイ動画とフランスのMiuプロダクションと異色の座組。制作法も異色で、森山未來らが役を演じた実写映像をアニメに引き写すロトスコープ技法を採用、声はそのままで不思議な存在感を放つ映画となった。仏側のスタッフによる美術と色彩設計も独特な柔らかさを持つ。
■ロトスコープは単に実写をなぞるのでなくアニメーターの美意識で動きを抽出しなければならない。歴史的には『ベティ・ブープ』のマックス・フライシャーの考案とされ、巧拙様々な作品が生み出されてきたが、現在放送中のNHK朝ドラ『虎に翼』のOP(シシヤマザキ作)でも秀逸に使われて注目の的。令和の世になってこのような大波が来ようとは。
■村上春樹原作の『めくらやなぎと眠る女』も実写映像を元にしたアニメ映画(ライブ・アニメーションと称する)。監督はピエール・フォルデス(仏)。これまた奇妙な味わいの映画。
■『ルックバック』は、もの作りの映画だったが、MV作りにかける高校生が主人公の『数分間のエールを』、アイドルになろうともがく『トラペジウム』(元乃木坂の高山一実原作)、女子高生のガールズバンド『ぼっち・ざ・ろっく!』(劇場総集編前後編)なども、それぞれの輝きを見せた。走ることに懸命な『ウマ娘プリティーダービー新時代の扉』もこの仲間かもしれない。
なお『ぼっち・ざ・ろっく!』の脚本は『虎に翼』と同じ吉田恵里香。吉田は今年の顔となった。
■話は破綻していても『好きでも嫌いなあまのじゃく』(スタジオコロリド作)は好ましいが、クレしん映画『オラたちの恐竜日記』は困りもの。必然性もなく生き死にを感動の種にするのはいただけない。令和の大スクリーンで恐竜たちがモー娘を踊り出すセンスにも困惑。
■『モノノ怪(ケ)唐傘』は降板した櫻井孝宏の後を神谷浩史が継いだ劇場版で三部作を予定。
降板騒動といえば大ベテラン古谷徹も。人気キャラクター安室透を擁す『名探偵コナン』を筆頭に今後が案じられる。
■『アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』は宿敵バイキンマンが映画版ジャイアン的な役回りと話題、大人向け上映回も設けられる人気に。
■上映が始まったばかりの山田尚子監督の新作『きみの色』は今のところ賛否両論。劇的な葛藤を排した作りで、主人公たちに共感出来る勢には心地よく、そうでない勢にはぬるくて緩く映る。山田監督の近作『聲の形』『リズと青い鳥』のある種のエキセントリックとは遠く、かつての出世作『けいおん!』のストレスフリーな展開を思い起こしたりもする。
■特撮では『カミノフデ 怪獣たちのいる島』を特筆。昭和ガメラの造形を手がけるなど怪獣界のレジェンド・村瀬継蔵が齢89にして映画監督(総監督)デビュー。特撮スタッフが集結し、ジュヴナイルの中に怪獣スーツ、操演、ミニチュア、破壊、等の特撮技術を盛り込んだファンタジーをものした。
■8月には第2回ひろしまアニメーションシーズンに参加。6月から体調不良で5日の会期中の2日間、厳選プログラムのみの参加だったが、「南家こうじ特集」などいいとこ取りで結果的に好印象となった。今回が国内初お披露目となったパキスタン初の手描き長編『ガラス職人』など貴重な出会い。思いがけず国産ピンスクリーンに触れる体験が出来たのも楽しかった。映画祭は同窓会的機能も果たして良きかな。
(2024年9月9日)
十年ぶりの再会『アステリオス・ポリプ』
この文章を書いてるのは二〇二四年九月ですが、今から十年前、二〇一四年のこと。当時、週刊ビッグコミックスピリッツに「インハイスピリッツ」というコラム欄がありました。漫棚通信もその欄にときどき参加して海外マンガを紹介していて、デイヴィッド・マッツケーリDavid Mazzucchelli『アステリオス・ポリプAsterios Polyp』もそのうちの一冊でした。
マッツケーリはフランク・ミラーと組んだヒーローもののアメリカン・コミックで有名ですが、九〇年代以降はオルタナティブ系にシフトしています。彼は日本語表記がよく変わる作家で、ポール・オースター作品をコミカライズした「シティ・オブ・グラス」が一九九五年に邦訳されたときはマッズケリ。二〇〇五年に「バットマン:イヤーワン」が邦訳されたときはマズッケリ。二〇〇九年の再版以後のヴィレッジブックスではマツケリー。で、今回はマッツケーリとなってまして、ああもうっ、検索するときは要注意。
十年前にまだ邦訳がなかった『アステリオス・ポリプ』を漫棚通信が紹介した文章を再掲しておきます。ポリプの表記もポリープになってますけど。
◆
嵐の夜、マンションの一室。かつてのおしゃれな部屋も今は荒れ果て、身なりも乱れた中年男が、ひとりベッドに横になりビデオを眺めています。突然の落雷。マンションが火事になり、男は慌てて嵐の街に飛び出します。彼はそのまま長距離バスに乗り、放浪の旅に出ることに……
デビッド・マツケリー『アステリオス・ポリープ Asterios Polyp』の冒頭は謎に満ちています。主人公アステリオスは、何を見ていたのか、なぜ旅に出たのか、なぜ不幸なのか。
マツケリーは『デアデビル』や『バットマン・イヤーワン』で知られる人気マンガ家です。本書はマツケリーが二〇〇九年に発表したグラフィック・ノベルで、アイズナー賞など多くの賞を受賞しました。
アステリオスの過去と現在が交互に語られ、謎が次第に明らかにされていきます。過去のシーンは赤と青の二色印刷、現在は青と黄の二色、という変わったつくりになってます。
アステリオスは大学の建築学教授。高い教養と高慢な態度が同居する俗物で、学術的な業績はあっても彼の作品は現実の建築物になったことがありません。
そんな彼が恋をして、日本とドイツのハーフのハナと結婚します。深く愛し合うふたりですが、アステリオスの狷介さのためその関係には亀裂が入っていきます。
アステリオスの造形がマンガ的におもしろく、彼のアタマはどの方向から描かれてもLED電球みたいなかたち。彼が妻とケンカするときは、彼の性格そのまま「透明な板」に変身したりします。ギャグと紙一重ですね。
ハナと離婚し、憔悴したアステリオスが冒頭のシーンで見ていたのはハナを撮影したビデオテープであることが明かされます。彼女の一瞬の表情、失われた美しい生活の断片。この描写は涙なくしては読めません。
アステリオスが長距離バスで訪れた田舎町で出会ったのは、これまでの彼の人生とは無縁だったひとびと。彼は自動車修理工として働き始め、田舎の人々と交歓し、親しくなった友人の子供のために木の上にツリーハウスを建てます。これこそ彼が初めてつくった建築物でした。
アステリオスとハナの愛と運命は、ギリシャ神話のオルフェウスの物語と二重写しに描かれています。妻を求めて冥界をさまようアステリオスは、再生することができるのか。
アステリオスはハナが住む北の街を訪れることを決心します。ここで過去と現在が統合され、画面は赤青黄、すなわち三色印刷のフルカラーとなります。色によって世界は一瞬に変化し、読者を驚かせるのです。
すみずみまでマンガ的なたくらみに満ちた作品で、かつその仕掛けが物語を高みに押し上げている。せつない大人のラブ・ストーリーは、このあと皮肉で壮大なラストシーンを迎えます。すばらしい作品なんだから、どこかで邦訳してくれないかなあ。
◆
どうでしょう。おもしろそうだと思いませんか。しかしいつもながらの媒体を考えてない文章ですので、読者からの反応はゼロ。コラムのタイトルは「マンガ的たくらみに満ちた切ない大人のラブ・ストーリー」でした。編集者のかたがつけてくれたものです。
邦訳してくれないかなあ、と書きましたが、このたび、二〇二四年になって、私の紹介から十年ぶりに、やっと、クラウドファンディングを使用した邦訳がなされました。九月中には一般販売も開始されます。これはめでたい。
●デイヴィッド・マッツケーリ『アステリオス・ポリプ』(矢倉喬士・はせがわなお訳、サウザンブックス社刊、五八〇〇円+税)
ひさしぶりに再読、というか今回はきちんとした邦訳で読むので、自分、かつてはどこか読みまちがえてたんじゃないかとひやひやしながら読み進めましたが、それなりに正しく読めてたみたい。ほっとしました。
邦訳で新しい発見もありました。
本作ではすべての登場人物のセリフに違った形のフキダシと違ったフォントが与えられています。原著ではフキダシ内のセリフはアメリカンコミックの伝統に沿って手書きだったのでハナのぶんだけがちょっと違ってるのかと思ってたのですが、邦訳ですべての登場人物が別字体でしゃべってることがはっきりしました。
フキダシとフォントの違いは登場人物の性格を表現しています。主人公アステリオスのフキダシは直線で囲まれた長方形でフォントはゴシックで、いかにも頑固そう。妻ハナのフキダシはふにゃっとしたバルーン。フォントは明朝体で、やさしい性格の芸術家。自動車修理工場の親方の妻は占い師でもある豪快な人物ですが、それっぽいフォントが使われてます。
アステリオスの頭の形、わたしはLED電球みたいと書きましたが、これは横から見ても正面から見ても斜めから見ても左右対称の同じ形に描かれてるからです。これは彼の狷介で頑固さ、そしてすべてを二項対立させる思考の反映です。その原因とも言えるのが、アステリオスの一卵性双生児として生まれ、すぐ死んでしまった兄弟、イグナツィオの存在です。
イグナツィオは物語の語り手でもあります。アステリオスのすぐ隣に存在する影のようなものとして表現されることもありますし、アステリオスの夢の中では彼とシャム双生児として合体した姿に描かれたりもします。アステリオスよりずっと成功した建築家として登場することもあり、アステリオスはつねに自分そっくりの姿をしたイグナツィオを意識しながら生きています。
本書の終盤、アステリオスは夢の中で自動車修理工となったイグナツィオと出会います。イグナツィオはいかに自分が虚飾に満ちた人生を送ってきたかを淡々と語ります。ここでイグナツィオのフキダシは次第に変形して直線に囲まれ、セリフのフォントはゴシックへ。つまりイグナツィオはアステリオス自身に変化しているのです。
アステリオスは自分の人生を否定するイグナツィオ、すなわち自分自身に怒り、彼に殴り掛かった……ところで目が覚める。
こののち、イグナツィオは消滅し、物語の語り手も存在しなくなくなります。アステリオスは自分の過去の象徴であるイグナツィオから解放され、生まれ変わったのです。彼の頭の形も少し丸くなりLED電球じゃなくなったみたい。
そしてさらにその後、お話は驚愕のラストを迎えることになるのですが、いやもう全編これマンガ/コミックスというメディアの技法を使った仕掛けだらけ。ベスト・オブ・ザ・ベスト級の逸品。あらためて堪能しました。
その16「子どもの時間」 修正稿(約6300字) 中田雅喜
誰にでも子どもの時はあった。子どもが主役の映画を紹介しよう。
洋画では名作が目白押しだ。ぱっと思いつくだけでも『ペーパー・ムーン』、『スタンドバイミー』、古き良きパリの『地下鉄のザジ』、労働者一家の崩壊と再生を描く『鉄道員』、戦火の中の『禁じられた遊び』、『ぼくの村は戦場だった』等々、枚挙にいとまがない。
では邦画の名作はどうかというと、子供向け作品はアニメしか勝たん。名作物でハイジに敵うものはないし、長猫、ドラえもん、しんちゃん、トトロ等々、説明の必要もない。近年はアニメの前にすべての実写映画が屈している。
はい!アニメが邦画界を牛耳る前の話をしよう――!
戦前の子ども向け映画は主にチャンバラだったりする。さいとう先生と月形龍之介の話などしていると、「本当は河合映画が見たいんだ」などと――。センセ、そんなもん断片しか残ってませんて。
「初代杉作少年・松尾文人」の回想録によると、無声時代のマキノや河合で文人主演の少年剣士ものが多く撮られている。現代劇では少年探偵シリーズ『地下室事件』(1930)など大人気だったとか。私は断片も見たことないが、半ズボンに三つ揃えでネクタイを締めピストルを持った少年探偵のスタイル(そしてときどき女装もする)は戦前から出来上がっていたようだ。
文芸作品では、シャア主演のTVドラマ『次郎物語』(1964~65)が一世風靡した。私はリアルタイムで見ていて今だに主題歌も歌えるが、内容はただただ「次郎クンは今日も可哀そうでした」としか覚えてない。
全然可哀そうじゃない『次郎物語』(1955/清水宏)もある。この次郎クンは自分の周辺で起こることをフレームに入れて客観的に観察している。「あー、お姉さんが行ってしまったかー」「あー、実家が没落しちゃいましたかー」てな調子。少しは泣けよ。
子どもは大人が思うよりも結構考えている。自分と外界が別々に存在していることに気づいたりする。私の場合、自我が「こんちわ」とやって来たのは四歳のころだった。十歳には時間の不可逆性に気が付いた。川の流れに触れたとき、「この水はもう戻らないのだ。海に向かって流れて行く。今触っている水は、さっきの水とは違うのだ」と。
あれこれ認識はしたが、自分もまた年を取っていくのだとまでは考えが及ばない。夢の世界にまだ両足突っ込んだままなのだ。
〇『風の又三郎』(1940/島耕二)
原作は宮沢賢治。物語は、皆さんご存じのとおり――。
【岩手の山間の分校に北海道から転校生・高田三郎(片山明彦)がやってくる。三郎は風をあやつる奇跡を起こすので、嘉助をはじめ子供たちは三郎を伝説の風の神「又三郎」だと考える。馬追いで森に迷った嘉助はガラスのマントで飛んでいく三郎を見た・・・】
一年生から六年生まで十人ほどの分校で、生徒たちは皆モンペに野良着のような恰好なのに、三郎だけ白い帽子に半ズボンの洋装だ。「小鳥の巣」のエドガーのように、謎の美少年は風のようにやってきて風のように去っていく。そして、なおかつ色っぽくミステリアス。片山明彦は、その条件を充分クリアーしている。
少年たちが水遊びしているとき、風の神などと認めない六年生が又三郎を投げ飛ばす。「どうだ、又三郎!悔しかったら風を吹かせてみろ!」と煽る。すると、又三郎は歌いだす。♪どっどど/どどう/どどうど/どどう♪の有名な歌だ。たちまち黒雲がわき、風が吹き始める。雷鳴轟き、稲妻は大樹を切り裂く。激しい雨に叩きつけられ、ずぶ濡れの子供たちは恐れをなして次々と逃げ始める。
嵐の中で嘉助少年は又三郎に告る。「知ってたぞ、お前が風の神の子だって!おらは最初から知ってたぞ!」・・・畏れと憧れと伝説と。このクライマックスシーンは少女漫画的な感動がある。少年たちは半裸だから余計にJUNEだ。又三郎は微笑み、嵐の中で勝ち誇ったように一人で唄い続けるのだった。
島監督は実子である片山明彦の魅力を充分に引き出している。撮影は美しく、ファンタジックに盛り上がる。子どもたちが馬を追うシーンも躍動感と爽快感に溢れている。
島監督のファンタジーは他に『緑の小筺』(1947)がある。二作ともお奨め。
さて――児童向け映画というと、ご高齢の皆さんは小学生の時に体育館や講堂で見せられたはずだ。東映の大川社長がまだTVが普及してない50年代に、児童向けの16ミリ映画を製作して全国の小学校に配給した。それが一連の〈東映教育映画〉である。
うちの小中学校でも毎年上映していた。なにしろ京都は東映のおひざ元だから。長編漫画映画では、『白蛇伝』、『安寿と厨子王丸』、メス猿が鬱陶しかった『西遊記』、今日では忘れられた存在の『わんわん忠臣蔵』等、くり返し上映された。一方、実写作品は子どもには退屈なものが多くて残念ながら一、二作しか覚えていない。覚えてもいないのに何ですけど、東映教育映画は佳作もあるのでお奨めです。
〇『トランペット少年』(1955/関川秀雄)
小学校の講堂で上映された。
【山村の小学校に新任の先生がやってくる。線路で遊ぶ生徒たちを大声で注意したので、さっそく雷先生とあだ名がついた。雷先生の理想は高かったが小学校は雨漏りするほどボロだった。予算が無いので雷先生は自力で屋根を直し、オルガンも直そうとする。その先生の熱意にPTAも新しい楽器を寄贈してくれるようになった。雷先生の音楽指導で生徒たちもやる気になり、PTAへの慰労演奏会を開催しようとまで計画された。
しかし金を出せない家庭もある。宗太の家はハーモニカさえ買ってもらえない。宗太の父が浪曲一辺倒で、西洋音楽を毛嫌いしていたからだ。しょんぼりする宗太に雷先生は自分のトランペットを与えた。宗太は喜んでトランペットの練習に没頭するが、怒った父親にトランペットを壊されてしまう。トランペットを直すため宗太は線路を伝って町まで歩いて行く。しかし途中で崖崩れを発見。このままじゃ汽車が脱線してしまう・・・!】
六十年ぶりに観たが、機関車を止めるシーンを覚えていた。ラストは村中の大人を集めて生徒全員での合奏シーンだ。上手すぎ!大人たちは大喝采。雷先生は村中の心を音楽でまとめ上げた。宗太と父親の心も繋がってハッピーエンドだ。エジンバラ国際児童映画祭優秀賞。
しかしこの作品は私の子ども心に引っかかった。私の家では祖父は謡、母も小学生の頃から三味線を舞台で弾いていたので、雷先生が西洋音楽普及のために邦楽を否定するのは納得できなかった。
同じころTV放映されていた米ドラマで『ハロー王ちゃん』というのがあった。
〇『ハロー王ちゃん』(1964)全26話。
設定が珍しい。当時アメリカでは中国人孤児を養子に迎えるのが意識高い系のステイタスだったのかも知れん。
【王くんを養子に迎えた養父の医師が王くんに西洋音楽を教えようとする。けれど王くんは音程もリズムも全くダメ。音痴なのか、それとも東洋人に西洋音楽はムリなのか。と養父が教育を諦めたとき、王くんが中国の伝統楽器(笙のような笛)を奏で出す。その演奏が学校に認められて拍手喝采を浴びる。養父は音楽への認識を新たにする。】
アメリカに占領された日本では教師が邦楽を捨てろと教育し、アメリカでは東洋の旋律が新しさを持って迎えられるという。『トランペット少年』と『ハロー王ちゃん』、正反対の物語を見たものだから、いまも心に遺っている。
少女が主人公の文芸物も紹介しよう。
田中絹代ちゃんの『伊豆の踊子』(1933)など、トンデモ映画の部類なのでいずれ紹介するが、今回は壷井栄の『柿の木のある家』を観てもらいたい。壷井作品は反戦ものの『二十四の瞳』(1954)ばかり紹介される。逆に『柿の木のある家』の「養女」ネタはデリケートな問題なのか放映されない。
それとも女性差別な内容だからか。当時、女の子は〈いずれヨメに出す子〉だから、本当に〈要らない子〉だったのかもしれない。壷井栄は実子が出来ず、じっさいに養子を育てていた。
○『柿の木のある家』(1955/古賀聖人)
【瀬戸内海に面した田舎の漁村。柿の木の廻りで5人のきょうだいが遊んでいる。長男らしき子供は唄う♪真ん中っ子は挟んで捨てろ♪と。その真ん中っ子は末っ子をおんぶしているヒサノである。苦しい生活の一家は東京の親戚から頼まれて、ヒサノを養女に出す決心をする。
東京の裕福な夫婦の家に貰われていったヒサノは一見幸せな生活だ。養母は優しい。しかし、やはりヒサノには実家を忘れてもらいたい。養父はヒサノを可愛がっていた祖父の死さえも報せない。
先に東京で女中奉公していたヒサノの姉は、妹に会いたいが会う決心が付かずに家の廻りをうろうろしている。それでいて路上でヒサノにばったり出会うと、はっと顔を隠してしまう。ヒサノもそれが姉だと分かっていながらも声をかけられない。姉妹が互いの立場を思いやり、会いたいが口に出せない・・・。その葛藤でヒサノは「元の家族に会えることになった。嬉しい」と作文に願望を書く。その嘘作文に養父は激怒し、ヒサノを元の実家に返してしまう・・・】
欲しいと言っては貰い、気に入らないからと言っては返し、あまりにも身勝手ではないか。返されたのを遊びに来たと勘違いして喜んでいるヒサノにどう伝えればいいのか・・・と、ヒサノの実両親は嘆く。
姉妹があまりにも健気で、観客は少女の幸せを願わずにいられない。ラストは、もう高齢者ボロ泣きだ。上映機会の少ない作品なので、機会があれば是非観ていただきたい。
実は私も養女に出されかけたことがある。困窮家庭どころか毎月一家でステーキを食う公務員だったのにね。私の母は男の子が欲しかったのだ。
子どもにとって親は大きな存在だ。親に愛されない、愛されたい、たとえ毒親でも愛されるためなら何でもする。――そんな子どももいるが、さっさと親に見切りをつける子もいる。見切りをつけて自分の足で歩いて行く。それは子どもの時間との別れだった。
〇『秋立ちぬ』(1960/成瀬巳喜男)
物語は夏休みの出来事――、
【小学六年生の秀男は父親を亡くし、田舎から母親と二人で伯父を頼って上京して来る。秀男は伯父の家に住み込んで八百屋を手伝い、母親は旅館で住み込みの仲居を始める。
ところが母親はすぐに旅館の常連客と出来てしまい、秀男を捨てて客と駆け落ちする。
その旅館の女将の一人娘である順子は秀男と仲良しになり、「うちの子になりなさいよ」と誘う。しかし順子の母親は妾であり、何でも買ってくれる父親は別に本宅が大阪にあるのだと知る・・・】
一般的に親の性的な事情を周りの大人たちは子どもに隠そうとするのだが、成瀬はドライに描く。伯父一家の娘は秀男の前で、「駆落ちするなんて叔母さん、やるわねー!あたし見直しちゃった!」と、カラッと言ってのける。
またドラマで少女は少年を慰める役割を押し付けられがちだが、この順子ちゃんは年下なのに完全なる都会っ子で耳年増。「中年女って凄いのよー。男に狂うと子どもなんてすぐに捨てちゃうんだからー」と容赦がない。順子の言葉に秀男が絶句していると、「あんたのお母さんも中年女でしょ?」と追い打ち。ここまで言われて「寂しい?」とか訊かれても、「寂しくなんかねえずら!」と答えるしかない。
しかし順子自身も両親に騙されていたと知る。そして、「あなた、海を見たがっていたでしょ」と秀男を誘ってタクシーで出かける。それが港湾整備中の晴海埠頭だ。そう、この作品の見どころの一つは当時の東京ロケだ。新富町から月島、晴海の海辺、いまはもう無い松坂屋銀座店の屋上など。大空襲の焼け野原から十五年でこの発展ぶりかと感心する。
そして二人の別れは突然やってくる。秀男が約束のカブト虫を持って順子に会いに行くと旅館はモヌケの殻だった。旅館は順子の父親に売られて取り壊されることになったのだ。別れも言えずに少女は去っていった。秀男は二人で眺めた思い出の屋上に行く。海は遠い。眼下の東京の街は壊されては新たに建ち、猛スピードで変わっていく。秀男の夏休みは終わった。少年の〈子供の時間〉は終わったのだ。――名作。
最後に洋画を一つ紹介しておこう。世間ではマーク・レスターが大人気だったが、私は相棒のジャック・ワイルド派だった。いま観なおすとジャック・ワイルドの役は貧困家庭のヤングケアラーだったりする。当時気付かなかった発見も多々あるので、やはり映画は繰り返し観るもんだ。
〇『小さな恋のメロディ』(1971)
【ロンドンのパブリックスクールに通うダニエル(マーク・レスター)は同学年のメロディ(トレーシー・ハイド)に恋をする。トム(ジャック・ワイルド)はダニエルが女の子に夢中になるのにムカついたが、ダニエルが学校をサボってメロディと海に行き、校長に叱責されても「僕たち結婚します!」と主張するので味方になった。
教師も親も当たり前に大反対だ。メロディは家族に、「どうして反対するの?ただ二人一緒に居たいだけなのに」と泣く。子どもたちは学校を脱走して廃墟で二人の結婚式を挙げる。トムが神父役で、クスクス笑う参列の子たちに「黙れ!これは本当の式なんだ!」と。しかし教師とPTAが追いかけてきて子供たちと大乱闘。トムは二人を逃がし、ダニエルとメロディはトロッコで草原の線路をどこまでも駆けて行くのだった・・・】
キスシーンさえも無く、唯一チェロを抱くダニエルとリコーダーを咥えるメロディとの暗喩があるだけだ。監督はじめスタッフ全員が二十代。イギリスでは保守体制への反抗を描く作品だった。しかし日本では純なラブ・ストーリーとして爆発的にヒットした。
ラストシーンで、トムはトロッコの二人に叫ぶ。「クラパムで乗り換えるんだ!」と――。乗り換えて・・・それでどこに行くのか?二人はこの後どうなるのか?どうやって食べていくのか?観客の大人たちは、二人はすぐに挫折してそれぞれの家庭に戻ってくると知っていた。観客のローティーンたちは二人の行く手には幸せな花園が待っていると信じていた。ロードショーで観たときの私は、ちょうど大人と子供の中間地点に居たので、このラストはどうも消化不良だった。
しかし今回五十年ぶりに観て、思い出したことがあった。それは小学生の時に読んだエリナー・ファージョンの「ガラスのくつ」のラストだった。
「ガラスのくつ」はシンデレラ物語の再話だ。ファージョン版シンデレラは、妖精の力を借りてダレシラヌ(誰知らぬ)国の王女となって城の舞踏会に行く。王子は王子で、まさにダレシラヌ国の王女を待っていた。王子は心の中で「来た!」と叫んだ。
そしてハッピーエンドのラストには――、二人は精霊に姿を変えて踊りながら星の周りを二周半回ってダレシラヌ国に行き、心の中の大切なものを置いてきました。――と、書いてあった。
当時小学生だった私にはこの意味が理解できなかった。理解できないまま今日まで心の中に疑問として転がっていたのだが、今回映画を見直して自分なりに納得できた。トロッコに乗ってダニエルとメロディは、心の中の大切なものをダレシラヌ国に置きに行ったのだと。だから、例え大人たちに連れ戻されても関係ないのだと――。
私も心の中にダレシラヌ国を持っていて、そこに〈子どもの時間〉を置いてきたはずだった。だが今、ダレシラヌ国はあまりにも遠い。
『秋立ちぬ』の秀男も順子も、大人になったとき想い返すだろう。どこかに置いてきた大切なものを。
映画は忘れてしまっていた憧憬を想い起こさせてくれる。やはり映画は繰り返し観るものだ。
(了)2024.9.4.