87号
■2023年秋期はいわゆる覇権が明白な時期だった。これは意外と珍しいのではないか。いつもならもう少し分散すると思うのだが。
■それは『葬送のフリーレン』と『薬屋のひとりごと』の2作。どちらも前評判が高く、アニメ化が待ち望まれていたもの。『フリーレン』に至っては初回2時間スペシャルを本来映画作品の放送枠である「金曜ロードショー」で放送するという戦略が取られ、目論見通りの反響を引き出した。通常の深夜放送あるいは配信で視聴する以外の層に目を向けさせ、関心を持たせることに成功。それを支えたのが高いクオリティで、作画や画面処理等、全てのレベルが高い。しかも原作の理解度が深く、要所で取り入れられるアニメオリジナルの細かい描写や、演出(描き出し方)、ちょっとしたオリジナル展開、等々が作品の解像度を上げ、豊かさと深みを加えることに成功している。そうした要素が放送配信で発見されるとSNS上で祭り状態になり、更に反響が広がる。原作ももちろんデリケートで面白いのだが、動きと色と音を併せ持ち、時間を操る作品であるアニメのアドバンテージが最大限に生かされている。
放送は大好評の内に一旦終了したが、二期はもちろんのこと、映画化などあれば嬉しい限りだ。
■一方の『薬屋のひとりごと』はよりアニメ的。パキッとした色彩設計、細やかな描写、分かり易く親切な展開、明確な性格設定とキャラ配置によるラブコメ風味、時にSDキャラに変化する楽しさ。「毒」を巡るミステリー仕立てなのも結論が明快で視聴後の満足度も高い。
『フリーレン』の主役声優は種崎敦美、『薬屋』は悠木碧とどちらも芸達者。静のフリーレン、動の猫猫(マオマオ、『薬屋』の主人公)と対比も鮮やか。悠木碧の変幻自在さはもはや怪演と言っていいし、種崎敦美は国民的キャラクターと言っていい『SPY×FAMILY』のアーニャをはじめ、現行の『プリキュア』でも主役を張るなど正に今が旬。
■秋期には他に人気作『Yes!プリキュア5』のキャラクターが社会人に成長しての物語『キボウノチカラ~オトナプリキュア’23~』が放送。それぞれの人生にもきちんと節目をつける誠実さに胸熱。
■『柚木さんちの四兄弟』はベテランの域に達した本郷みつる監督作。両親を亡くした男兄弟の生活という、実は特異な設定をナチュラルに、時に実写映像も交えて瑞々しく描き出す。周囲の大人の対応、男子と女子の関係など結構先進的でもある。
■筆者的にはNHK大河に合わせて(?)「光る君」のごとく成長した17歳のおじゃる丸の雅な生活を描く『おじゃる丸』新シリーズも見逃せない。EDにちらほら出ていたキャラの意外な正体の判明も見どころだ。
■ドラマでは安定のヨーロッパ企画が手掛けるタイムリープもの『時をかけるな、恋人たち』が楽しかった。この組み合わせに外れなし。
■年が明け冬期新番組が始まったが共に2クール放送の『フリーレン』『薬屋』の勢いは止まらず。ただし、冬期は『ダンジョン飯』が加わって三つ巴の構え。
『ダンジョン飯』もアニメ化を待望されていた作品で、見事に期待に応えてみせた。日本のアニメ界が長年蓄えてきた食物描写の冴えと制作のトリガーが持つケレンの相乗効果で観ていて実に陽性に楽しい。原作由来ではあるが、例えば「動く鎧」の意外な正体など凄かった。
しかも、ここにもいい味を出しているエルフがいて、フリーレン、そして2023年4月放送の『江戸前エルフ』も合わせ、創作界には今やポンコツエルフの大波が来ているのだ。
■私的には実は今期の一推しはフリーレンでも薬屋でもダンジョンでもなく『姫様“拷問”の時間です』。魔王軍に囚われの身となった姫様兼凄腕騎士団長に迫る拷問の魔手。ではあるのだが、ある時は熱々のタコ焼き、ある時はサクサクのトースト、またある時はもふもふの小動物の誘惑を最高の作画技術で描き出す、とんでもない作画アニメ。ある時は拷問官とピクニック、ある時は魔王の一人娘の運動会とすっかり魔界に馴染んだ姫様の満たされた様子、マンション住まいで超ホワイト企業な魔王軍など、観る度にほっこりと幸せになれる貴重なアニメ。
■劇場アニメも大きな成果があった。
12月公開の『窓ぎわのトットちゃん』は黒柳徹子の国民的ヒットをみた少女時代の自伝が原作。制作のシンエイ動画(八鍬新之介監督)はこれを非常に丁寧なアニメならではの見どころを持つ美しい反戦映画に仕上げた。天真爛漫なトットちゃんが理解あるトモエ学園で送る伸びやかな生活が次第に戦争に蝕まれていく様を、あくまでも子供の目線から、ほぼ子供の見たことだけを通して描く。作画も美術も音楽も極上で、その精神も技術も描かれる時代も、もうひとつの『この世界の片隅に』(片渕須直監督)と言える。黒柳徹子原作であることと、昭和の童画をイメージしたキャラクターデザインによって、観ずとも分かった気になってしまう人が多いらしく今ひとつ結果を出せていないのが残念でならない。
■一方、11月公開の『ゲゲゲの鬼太郎』の劇場版『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は多くのリピーターを生み製作側も予想外のスマッシュヒットとなった。目玉おやじになる前の人間体の鬼太郎の父と、鬼太郎誕生にも深く関わる男・水木とを主人公に、戦前からの日本の構造が孕む闇を抉るPG12らしい大人向けホラー作品。父ゲゲ郎と水木のバディ感、超絶作画アクション、初めて明かされるちゃんちゃんこ生成秘話など見どころ満載で鑑賞後は『鬼太郎』に対する目が一変する。タイミング良く展開された複数回の入プレ作戦もファンのツボを突きまくりで、幸せな作品となった。
■2023年の映画界は『鬼太郎誕生』『トットちゃん』『君たちはどう生きるか』『ゴジラ-1.0』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』『ほかげ』と、第二次世界大戦を舞台とした作品が重なった。これも昭和を総括する流れと、「新しい戦前」とも言われる現在の世相を反映したものだろうか。「戦前」が「戦中戦後」に変わらないよう歴史に学ぶ機会となってほしい。
■その正に戦時下となってしまったウクライナの『ストールン・プリンセス:キーウの王女とルスラン』は本作に惚れ込んだ日本女性が独力で配給会社を立ち上げて公開に漕ぎつけた作品(制作は2018年)。全体にはハリウッドアニメに倣った作りだが、ウクライナの文化や風物が反映されて、観ていて嫌味なく楽しめる。昨今は海外アニメの公開も盛んになってきたが、こうした例もあることを歴史と記憶に刻んでおきたい。
■論の流れついでに山崎貴の『ゴジラ-1.0』だが私は否定派。このゴジラはキライだ。品が無い。どんな作品があってもいいゴジラ映画だが、やはり主役であって欲しい。主人公のトラウマ克服の当て馬なのはいただけない。日本の戦争に対する扱いにも疑問。公開当初は賛否両論だった筈が米アカデミー賞視覚効果賞ノミネート辺りから風向きが変わり、受賞の現在ではすっかり賛に転向した向きも多いが私は権威には屈しない。
■海外作では『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック』は日本でもTV放送された人気作の3DCG劇場版。タートルズのティーンエイジャー感が愛おしく、敵役の銀バエのミュータントのギラギラ質感も凄まじい。タートルズの保護者かつ師匠であるネズミのミュータント、スプリンターの声をジャッキー・チェンが演じており、アニメながら往時を彷彿させるアクションを見せるのも胸熱。
■いつもながら宣伝攻勢が目立ったディズニー100周年記念作『ウィッシュ』は蓋を開けてみると小ぶりな造り。世界中で興行不振が伝えられたが日本ではヒット、さすがのガラパゴス国。作品的には批判もされているが、私は福山雅治が楽しそうに声を演じているヴィランの王様が大好きだ。同時公開の短編『ワンス・アポン・ア・スタジオ』は歴代ディズニーキャラが一堂に会して記念撮影に臨む趣向でファンには胸迫る演出だ。
■『ペルリンプスと秘密の森』はブラジルのアレ・アブレウ監督の新作。鮮やかかつ柔らかな色彩が目を引く。ストーリー的には監督の前作『父を探して』同様に、日本にとってはかつて通って来た道。同国の未来に幸あれと祈る。
■何を思ったかキノシネマ系で突然公開されたフランスの『プチバンピ』は日本でも放送配信されたという仏製アニメの映画版。吸血鬼(バンピール)の少年が主人公。粋でハッピーな結末が今風で後味は悪くない。
■日本作品に戻ると9月公開の『アリスとテレスのまぼろし工場』は脚本監督を務める岡田麿里の最新作。タイトルの「アリスとテレス」は言葉遊びに近いが元ネタはあるそう。事故で突如時間の流れが止まってしまった地方都市が舞台という設定に如実に現在の日本が抱える問題と閉塞感が反映されている。ラストにパンドラの箱的な希望はあるが、いかにしても岡田麿里成分が過去一濃厚で合う人を選ぶだろう。毎日映画コンクールではアニメーション映画賞を受賞、新潟の映画祭(後述)でもコンペ入賞など評価は高い。
■漫画原作の『北極百貨店のコンシェルジュさん』は珠玉という言葉が相応しい逸品。色彩感覚、画面構成、作画の冴え、耳ざわり良い音楽、心温まりつつも現実を撃つ作劇と全方位的に隙が無い。絶滅動物が集う場所との架空の設定だが、今や百貨店自体が絶滅種に近い。
■『火の鳥 エデンの花』はちょっと困った作品。俳優が声を務める映画も増えてはいるが、これは辛い出来。原作の近親相姦設定はさすがにこの時代、変更されているが、気を配るのはそこではないと言いたい。アニメ化が難しいのは理解するが、亡くなってまでも決定版が出ない手塚漫画とは。(この時点で『プルートゥ」は未見)
■困ったと言えば歴史的な興行的大敗を記録しそうな『屋根裏のラジャー』はスタジオポノックの最新作。公開前日に前作『メアリと魔女の花』を金曜ロードショーで放映したのが裏目に出たのではと思ってしまう。レジェンド級アニメーターが大挙参加した部分の作画は良いだけに、制作側は多分気づいていない基本設定の混乱と登場人物の魅力が薄いのが何とも残念。スタジオ維持も気遣われる状況だが次の新作構想も発表され、いち早く決まったネトフリ配信が支えになれば良いが。
■鬼滅映画(『絆の奇跡、そして柱稽古へ』)のヒットは想定内だが『ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦』の大ヒットは予想出来なかった。キャラ人気が複数ある作品は強い。
■3月は公開作も多いが、何かと多忙でまだチェック出来ていない。恒例のドラえもん映画『のび太の地球交響楽』を筆頭に、まさかの劇場総集編が公開の『パリピ孔明』、イルミネーションの新作『FLY!/フライ!』ようやく劇場上映のディズニー『私ときどきレッサーパンダ』『あの夏のルカ』(これは傑作)、前後編連続公開の『デデデデ』(通称)など注目作は多く、加えてアカデミー受賞記念の英語版『君たちはどう生きるか』や、宮崎駿版『名探偵ホームズ』の再上映などもあるのだが。
■何故そんなに忙しかったかというと、3月に集中したアニメ映画祭の為。8日からの東京アニメアワード(TAAF)、15日からの新潟国際アニメーション映画祭(NIAFF)と連続で、アニメーションファンは体力経済力が試される季節。
それでも、それだけ得るものがあるのがこの二つの映画祭で、TAAFの長編コンペでは待望久しかったフランス・ベルギーの『シロッコと風の王国』、招待作品として思いがけぬ上映で望外の喜びとなったこれもフランスの『ニナとハリネズミの秘密』が観られて良かった。
■『シロッコと風の王国』の素晴らしさといったら!アニメーションの喜びここに極まるというか、センスあるキャラクターと、往きて還りし物語としてファンタジーの王道であるストーリー。湯浅政明監督の影響を語る監督の言が大きく腑に落ちる怪しい生き物と揺らぐ動きに魅せられる。姉妹の冒険という時点で宮崎駿監督作『となりのトトロ』の影響も明らかで、鳥の顔を持つ歌姫がパラグライダー(?)で大空を滑空するなど、もう何もかもが素敵。観ているだけで満たされるアニメの至福。
長編コンペとしては、かつてこのTAAFで世界へ羽ばたいたと言って過言ではないローデンバック監督の凱旋とも言える最新作かつ作品的にも上出来の『リンダはチキンがたべたい!』があり、グランプリも納得の獲得だったが、既に一般公開が決まっている作品よりもこれからの作品を優先して欲しかった気もする。
■4本の長編コンペ作は他に中国の『ストーム(大雨)』とチェコの人形アニメ『トニーとシェリー、そして魔法の明かり』。
『トニーとシェリー』は昨年の東京国際映画祭でも上映されたがチェコの伝統芸の継承を感じる意欲作。中国の『ストーム』は入り組んだ話を一見映画版『クレヨンしんちゃん』を彷彿させるスタイリッシュな絵と動きで見せる。ラストの、これでもかの泣かせ演出の畳みかけはさすが中国。パワフルだ。いつか電影祭などでの再会を期したい。
■話のついでに、今回から趣向が変わった東京国際映画祭では中国の3DCGアニメの大作『深海レストラン』も上映され、これも中国の底力を見せつけた。同祭ではスペインの手描き長編『ロボット・ドリームズ』(現時点で公開決定)も観られて幸いだった。
■TAAFに話を戻して『ニナとハリネズミの秘密』は2010年公開の『パリ猫ディノの夜』以来、日本でも根強い人気を持つフランスのアラン・ガニョル&フェリシオリの新作。独特なキャラクターデザインがクセになる。今回は思春期の少年少女の甘酸っぱい初恋が絡むがフランスだけに少女の小悪魔的な魅力がたまらない。
■今回は直前に右目をちょっと痛めてしまい、静養の為に短編コンペの鑑賞は控えめに。短編グランプリの『氷商人』は鑑賞。他は例年に倣い後日の配信に期待したい。
■TAAFは柱の1つに功労部門の顕彰があり、今年は原作者として鳥山明さんも選出。受賞のコメントに「健康にいまいち自信のない僕」とあるが、まさかこんな早く急逝のニュースを聞くとは夢にも思わなかった。
■TAAF閉幕の4日後に開幕のNIAFFは今回が2回目。天候に恵まれた前回と打って変わって雨続き、時折は吹雪くという最悪の中の開催だったが映画祭そのものは引き続き素晴らしいものだった。
私は今回、公式のデイリーペーパー掲載の各作品の星取表を依頼されて担当。前回よりも数を増した全12本の鑑賞と採点、40文字と限られた文字数でのコメントはかなり大変な仕事だったが、それだけの遣り甲斐があった。某作品に★5満点中★1を付けたことが思いの外の反響を呼び、意図的ではないが映画祭に爪痕を残せたのではと思う。
■長編作品が対象の新潟だがコンペ上映作は手法もテーマも表現も様々で実に興味深い。グランプリはカナダの『アダムが変わるとき』。ユニークなキャラクターデザインの2D手描き作品。前回グランプリの、村上春樹の小説原作のフランス作品『めくらやなぎと眠る女』と奇妙な味わいが通じる気がして、映画祭としての新潟の色ともいうものが打ち出せたのではないかと思う。
■コンペ作で私が気に入ったのは人形アニメと手描き作画の混淆でダ・ヴィンチの晩年を描くアメリカ作品『インベンター』(意味は発明家)。とにかく画面を観ているだけで楽しい上に、聡明な王女とダ・ヴィンチが育む崇高な友情、戦いよりも文化をというルネッサンスの始まり、と正に今の映画になっていること。これはどこかで公開なり上映なりされてほしい。
■他にも日本のアニメ的なルックを持つクールなSF『マーズ・エクスプレス』、ロトスコープを美的に昇華させ生と死を投げかける『オン・ザ・ブリッジ』、北米先住民の伝承を土俗的な絵で展開する『コヨーテの4つの魂』、渡辺謙が孤島に暮らす元日本兵の声を演じた『ケンスケの王国』、成長著しいタイ産の3DCGで『聖闘士星矢』的世界観な『マントラ・ウォーリアー』等々が印象に残る。
■今回のレトロスペクティブ部門は高畑勲。長編作品の一挙上映に加え、『狼少年ケン』『母をたずねて三千里』のTV作品も網羅。
■新潟のプログラムは充実すぎる上に市内8会場に渡り、とても身一つでは見切れない。上映だけでなくトークやアフターQ&A、シンポジウムからオールナイトまであり、嬉しい悲鳴。
■最終日には授賞式&閉会式が行われ、誰でも参加出来るオープンな場であることが尊い。受賞者のスピーチや今回の大会審査員長を務めたノラ・トゥーミー監督(『ブレッドウィナー』)の言葉はどれも、アニメーションと世界の今を思う真摯で誠実なもので深く心を打たれた。地元所縁の作家の名を冠した蕗谷虹児賞の一人に輝いた作画監督・本田雄(受賞は『君たちはどう生きるか』)は宮﨑監督に次回作があるなら是非力を注ぎたいとスピーチ、これはもう状況は決定的と言っていいのでは。
■と、今後の楽しみが増したところで今回はおしまい。アニメ鑑賞も元気であってこそ。イベントを通じて多くの知己も得たことで、もう少し頑張りたい。
(2024年3月)
「家なき子」と「家なき少女」 後編
というわけで前回の続きです。今回のネタ本はこちら。
まずは書誌情報。東京泰光堂発行、二川まこと作画『家なき少女』昭和二十九年刊です。装丁は四六判ハードカバー百三十二ページ。表紙カラーで色付きカバー付き、巻頭から三十二ページが4色印刷、続く三十二ページが2色印刷、残りは単色印刷。これで定価は130円で当時としては丁寧なつくりの本である。発行元の泰光堂は昭和4年ころから実用書を中心に刊行をしていた出版社で戦後は児童向けの実用書や伝記作品なども発行していた。漫画の発行に関してはごく短い期間で名作物や伝記物の漫画化作品が多かったようだ。この本もそんな名作物シリーズ中の1冊である。
さて本題の「家なき少女」の説明である。原作は「家なき子」で有名なエクトール・アンリ・マロによる。一応「家なき子」の十五年後に発表した姉妹版という位置づけがされている。邦題は初訳の大正7年・五来素川訳の「雛燕」、昭和2年・片岡鉄兵訳「あゝ故郷」以外は概ね「家なき少女」もしくは「家なき娘」で統一されている。ただしアニメ「ペリーヌ物語」以降は、「ペリーヌ物語」のタイトルのほうが一般受けはしやすくなっているようではある。
いつもならあらすじくらい紹介はするけど、漫画の手帖の読者で「ペリーヌ物語」を見ていない人間はいないと思われるので今回はあらすじ無しです。でもすこし作品の経緯は説明しておこう。
「家なき娘」は「家なき子」と並んでエクトール・アンリ・マロの代表作とされる。タイトルが「家なき子」と「家なき娘」とまるで対になっているので主人公を男の子から女の子に単純に置き換えたもののように感じるが、実はテーマがぜんぜん違う。
「家なき子」の原題が”Sans famille”(直訳すると”家族無し”)なのに対して「家なき娘」の原題は”En famille”(直訳すると”家族とともに”)と真逆の意味のタイトルとなっている。それにもかかわらず「家なき娘」というタイトルが連綿と付けられたのはちょっと理由がある。
岩波文庫版『家なき娘』津田穣訳昭和十六年初版上巻巻頭の訳者解説に次の文章がある。「原名のアン・ファミーユという言葉そのものには、右にのべたところでもお分かりになるように、「家なき娘」という意味は少しもない。「家を持って」「楽しい家庭で」「一家打ち揃って」というような意味合いの日本語でこの小説の題名にふさわしいものを、長い間私は捜したが見つけることができなかった。従来「家なき娘」として知られているのでこの標題を踏襲した。」
実は「家なき娘」の原題の”En famille”は「家なき子」の最終章のサブタイトルと同じなのである。「家なき子」は失った家族を放浪の末探し求める、ちょっとだけ冒険活劇的な話だった。「家なき娘」はそこから続き、出会った家族とともに家庭を再生するお話なのである。
アニメ「ペリーヌ物語」は前半十六話が原作には無いパリへの道程が描かれていて、祖父ビルフランとの出会うのはちょうど半分の二十六話あたりとなる。しかし原作では全四十章の内、十二章目にはすでにビルフランと出会っているので随分とストーリーの比重が変わっている。
さてそろそろ話を二川まこと版『家なき少女』に戻そう(汗)。作者の二川まことについてはやっぱりよくわからない。作者名については、単行本の序文に「にかわ眞」と記名がある。本名かペンネームかは判然としないが「二川眞」が正規表記だったのかもしれない。結局色々データベースを検索しても昭和二十八年から三十二年頃の泰光堂の漫画単行本が十冊程度出てくるだけだった。
表紙の絵と本文の絵は少々傾向違うので、別な作者によるものと思われる。どちらの絵も華やかさはないがぼくとつな感じが好みである。
結構長い原作(例えば岩波文庫版では約四五十ページほど)をどのように構成し直しているか、ここらへんがコミカライズの肝である。二川まこと版『家なき少女』は、本文百二十六ページ。巻頭でいきなりマロクール村の手前でロザリーと出会うシーンから始まる。母親との道中のエピソードがどうなっているのかといえば、途中で回想シーンとして差し込まれる工夫がされ、ペリーヌとビルフランのやりとり(攻防?)には十分ページを割いている。
原作のエンディングは(1)ペリーヌが孫娘だと知る、(2)従業員たちがビルフランの誕生日を祝う、(3)目の手術を行う、(4)買い戻したパリカールで村を巡る、という順番で構成されてる(ちなみにこの4エピソードが原作のラストわずか1章に詰め込まれている)。
二川まこと版『家なき少女』は(1)、(3)、(4)、(2)の順番。祝賀会で大団円を終えるという盛り上がる構成になっている。全体通してみても、絵柄や表現は地味ながら原作にわりかし忠実で破綻なくまとまっている。個人的には同じ古いコミカライズである集英社少女漫画文庫・渡辺まこと版『家なき少女』(昭和三十四年刊)よりも絵がぼくとつな分、気にいっている。
さて二川まこと版『家なき少女』の話はここら辺にしておいて、そろそろ脱線しよう(笑)。今回散々、「家なき娘」の原作やコミカライズや翻案ものを読んでみたが、一番気にいったのは日本初訳の五来素川(ごらいそせん)訳の「雛燕」(大正7年婦人之友社刊)であった。翻訳というよりは翻案に近い。舞台は確かにフランスのままだが、ペリーヌが花枝、変名オーレリーが花、パリカールはアミ、祖父ビルフランが新右衛門、お父さんが新太郎、お母さんが萩子、友達のロザリーはお里という具合に登場人物すべての名が日本人名に置き換えられている。地名に関してもフランス・パリなどはそのままだがマロクール村は宮古と置き換わっている。カタカナ人名は当時の子供にはなじまないと判断したのか、ずいぶんと奇妙な読み味だった(汗)。
ついでに「家なき子」と「家なき娘」を通して一番面白いと思ったコミカライズは藤田素子版『家なき子』(ぶんか社 グリム童話コミック2002年刊)だった。主人公レミはかなり艶っぽい女性に置き換えられ、記憶喪失のところを拾われ幸せな結婚をしているが、妊娠をきっかけに過去に娼婦だった嫌疑をかけられ、義母によってヴィタリス一座に売り飛ばされる…というお話。編集Fさんはきっと好きだな(笑)。でも十八禁なんで良い子は読んじゃダメよ。
漫画家残念物語 第20回 漫画どころじゃない残念
毎回忙しいと言ってますが、残念ながらまだ地獄を見ていませんでした。今が地獄の忙しさです。
もちろん旧尾崎テオドラ邸の用事です。残念ながら漫画など全く、取り掛かる暇がありません(泣)
せっかく昨年は私の旧作をほぼ全て、電子書籍化していただく契約を結び、全6巻出していただくことになってたのに~。
昨年3巻まで出して、残りの3巻がなぜ止まってるかといえば…原稿の在処が全然分からないからです。家の中のどこかにあるのは間違いない。何年か前には取り出して、自分の同人誌に再録した。その後ですよ。なぜ元の場所に戻さなかったああああ!
ゆっくり捜索する時間がなくて、電子書籍の版元さんからの「原稿見つかりました?」の催促メールにも返信する時間さえなくて(ほんとは「見つかりません」と言いたくなくて返信できないだけ)…待って。これと同じこと前にも書いた気がする…けど、前号を確認する時間は節約させていただきます。すいません!
さて旧尾崎テオドラ邸に関わるあらゆる連絡業務、展示企画、依頼、打ち合わせ、各所への支払業務その他をこなして、3月1日、無事にオープンに漕ぎ着けました。
何が嬉しいって、これで後は、様々な業務はスタッフさんたちに任せられる、私は解放される、きっとそう、と…思っていました。が!
なんなの?前より忙しくなってない?なぜ?
ああそうか。残念ながらオープンしたから以前より館内の仕事が増えてる。増えた分の仕事はスタッフさんたちが担ってる。残念ながらこちらはあまり変わらない上に、予想外のトラブル対処も増えたりする。もっとスタッフ雇ってくれ!
え?お金がかかるからダメ?こちとら無給かつ無休で働いてんですけど。無給どころか大変な金額を出してるんですけど。ムキュームキュー、キュウウーン!
といった日々を、先日『週刊文春エンタ+』に取材してもらいましたよ。それは魔夜峰央先生のお嬢さんであり、漫画家の山田マリエさんによる「ヒット“漫画家”になりたい!」という連載企画です。山下和美さんと私が、洋館のことでズウーン…となってる姿を活写していただきました! 4月下旬発売なので、まだ買えるかもしれませんよ。
取材といえば2月のプレオープン時のお披露目会には、物凄い取材陣が押し寄せました。さすが高橋留美子先生始め、著名漫画家の皆さんを引っ張り出させていただいただけある。その後もひっきりなしにいろんな所から取材があります。
その合間にオープンした旧尾崎テオドラ邸ギャラリー。最初の展示は、萩尾望都先生やら大和和紀先生やら山岸凉子先生やら…もうとんでもなく豪華な皆様からご提供された作品展でした。
展示した作品を収録した豪華画集『旧尾崎テオドラ邸チャリティ作品集』販売中。この画集の編集作業は、頼れる友人と私とで頑張りました。どこかで見かけたら買ってね!(ざ、残念ながら、忙しくてうっかり、5月コミティアは申し込みそびれちゃったけどさ…)
展示作品のオークション運営は…今後の改善ポイントです。(残念ながら私の聞いてないうちに…という点もありましたから…)
次の展示は「三原順の空想と絵本展」これはもうほんとに素晴らしい展示でした!
主催はムーンライティングさん。何度も三原順展を手がけておられるご夫妻です。ご多忙の中でも早くから入念な準備を重ねられ、工夫と愛情の詰まった楽しい展示でした。お二人にお任せしてよかった!
その次の展示からは、我々が自力で主催しなくてはならない。いきなり残念なことになりませんように…。これ書いてる時点では、今後どうなるのか、まだわかりませんっ!
君は百年生きる
何という恐ろしい言葉であろうか、いったい何の罰ゲームなのか、この混迷の時代に百年生きろとは!
終身雇用制度もなく退職金どっさりもなく、バイトで派遣社員で老親は介護が必要で、将来養ってくれる子供もいない。それで百年生きろとは!
〈君は百年生きる〉は、証券会社の宣伝惹句である。だから積立NISAをしろという。はいー、私もしっかりやってます。将来に危機感持った庶民のおかげで日経平均は過去最高額を更新した。しかし株は上がるときもあれば下がるときもある。株初心者は一喜一憂しないように。
で――、いま政府は「子供梅!子供梅!」と連呼しているが、五十年前には「人口爆発で食糧危機がやってくる!」と叫んでいたの、忘れてませんか?
東京の人口が一千万人を超えたころだ。HMDの活動で昔の8ミリフィルムを見ていると映像の中には子供が元気いっぱい走り回っている。運動会はもちろんのこと、結婚式など親戚中の子供がわらわら記念撮影に集まってくる。戦争中は産児無制限の産めよ増やせよで、戦後は第一次ベビーブームで、川崎のぼるの『てんとう虫の歌』やちばてつやの『1・2・3と4・5・ロク』など兄弟いっぱいの漫画が人気だった。左門豊作の「ちよ、じろう、さぶ、みち、まさひろ・・・」いまでも言えるww
もちろん昔の子供たちは働いた。親は子供たちが働いて一家を支えてくれることを前提に産みまくった。戦前は戦争のため、戦後の労働人口生産のため。その結果――、人口増えすぎて食料不足になった。生産しすぎて公害になった。だから今度は「産むな」と。
為政者はあまりにも行き当たりばったりだ。国民は振り回される。
何という恐ろしい言葉であろうか、いったい何の罰ゲームなのか、この混迷の時代に百年生きろとは!
終身雇用制度もなく退職金どっさりもなく、バイトで派遣社員で老親は介護が必要で、将来養ってくれる子供もいない。それで百年生きろとは!
〈君は百年生きる〉は、証券会社の宣伝惹句である。だから積立NISAをしろという。はいー、私もしっかりやってます。将来に危機感持った庶民のおかげで日経平均は過去最高額を更新した。しかし株は上がるときもあれば下がるときもある。株初心者は一喜一憂しないように。
で――、いま政府は「子供梅!子供梅!」と連呼しているが、五十年前には「人口爆発で食糧危機がやってくる!」と叫んでいたの、忘れてませんか?
東京の人口が一千万人を超えたころだ。HMDの活動で昔の8ミリフィルムを見ていると映像の中には子供が元気いっぱい走り回っている。運動会はもちろんのこと、結婚式など親戚中の子供がわらわら記念撮影に集まってくる。戦争中は産児無制限の産めよ増やせよで、戦後は第一次ベビーブームで、川崎のぼるの『てんとう虫の歌』やちばてつやの『1・2・3と4・5・ロク』など兄弟いっぱいの漫画が人気だった。左門豊作の「ちよ、じろう、さぶ、みち、まさひろ・・・」いまでも言えるww
もちろん昔の子供たちは働いた。親は子供たちが働いて一家を支えてくれることを前提に産みまくった。戦前は戦争のため、戦後の労働人口生産のため。その結果――、人口増えすぎて食料不足になった。生産しすぎて公害になった。だから今度は「産むな」と。
為政者はあまりにも行き当たりばったりだ。国民は振り回される。
何という恐ろしい言葉であろうか、いったい何の罰ゲームなのか、この混迷の時代に百年生きろとは!
終身雇用制度もなく退職金どっさりもなく、バイトで派遣社員で老親は介護が必要で、将来養ってくれる子供もいない。それで百年生きろとは!
〈君は百年生きる〉は、証券会社の宣伝惹句である。だから積立NISAをしろという。はいー、私もしっかりやってます。将来に危機感持った庶民のおかげで日経平均は過去最高額を更新した。しかし株は上がるときもあれば下がるときもある。株初心者は一喜一憂しないように。
で――、いま政府は「子供梅!子供梅!」と連呼しているが、五十年前には「人口爆発で食糧危機がやってくる!」と叫んでいたの、忘れてませんか?
東京の人口が一千万人を超えたころだ。HMDの活動で昔の8ミリフィルムを見ていると映像の中には子供が元気いっぱい走り回っている。運動会はもちろんのこと、結婚式など親戚中の子供がわらわら記念撮影に集まってくる。戦争中は産児無制限の産めよ増やせよで、戦後は第一次ベビーブームで、川崎のぼるの『てんとう虫の歌』やちばてつやの『1・2・3と4・5・ロク』など兄弟いっぱいの漫画が人気だった。左門豊作の「ちよ、じろう、さぶ、みち、まさひろ・・・」いまでも言えるww
もちろん昔の子供たちは働いた。親は子供たちが働いて一家を支えてくれることを前提に産みまくった。戦前は戦争のため、戦後の労働人口生産のため。その結果――、人口増えすぎて食料不足になった。生産しすぎて公害になった。だから今度は「産むな」と。
為政者はあまりにも行き当たりばったりだ。国民は振り回される。
〇『楢山節考』(1958/木下恵介)――原作:深沢七郎。97分 原作は東北と信州の姨捨伝説に基づく。長野県にはいまだしっかり「姨捨駅」が遺っている。
物語は――、
【楢山様の年に一度のお祭の日だけ白い米を喰うことが許される、それほどに貧しい村。貧しさゆえ、村では七十歳になる年寄りを楢山に捨てる慣習がある。
息子の辰平(高橋貞二)は母おりん(田中絹代)を捨てるべきか苦悩する。だが捨てる以外に無い。息子の苦しみを知るおりんは、自ら歯を折って〈役立たずの年寄り〉を演出する。孫息子は「早く山に行け!」と迫る。ついに辰平は母を背負って楢山に向かうのだった・・・】
初見はDVDだったが、感動して三回観た。
黒子の口上から始まって定式幕が開き、音楽は最初から終いまで太棹三味線が響き、ナレーションは浄瑠璃調で語られる。そして全シーン、伊藤熹朔(舞台美術の大家)のセット。それはいかにも作り物で、当時はそれが斬新とされた。――というのは、日本の古典芸能では激しい情念を表すとき、逆にリアルを避ける〈人形振り〉の演出を使う。その効果を狙ったのかも――。田中絹代らの口跡や所作も、舞台の世話物のように形の芝居から入って行く。「昔こういうことがあったんですよー」と、これから始まる親を捨てる非情な物語を様式美で観客に語りかけていく。一見の価値ある作品。
しかし舞台様式に興味のない方々には、リメイク版のほうがお奨めだろう。『戦メリ』を押しのけてカンヌ映画祭パルム・ドールを獲った力強い作品が、こちら。
〇『楢山節考』(1983/今村昌平)――131分。
公開時に大スクリーンで観た。こちらはオールセットではなくリアル追及。木下恵介が避けた人間の生々しさを全開にした映像だ。口減らしは老人だけではない。食べ物を盗むような一家があれば、「楢山様に謝れ!」とばかりに村中で襲って女子供もすべて山に埋めて根絶やしにしてしまう。木下恵介版よりもリアルに、生命を次世代に繋いでいくための動物としての人間が強調されている。
物語は木下版と同じく、深沢の原作どおり――、
【――息子の辰平(緒形拳)が母おりん(坂本スミ子)を背負って山に捨てに行くと、山頂に近づくにつれ山道にどんどん人骨が増えて来る。死肉をむさぼろうとカラスも待っている。
もちろん捨てられたくない爺さんもいるわけで、逃げ出そうとするので無理やり網に入れて縛り上げて山に行き、背中で暴れるので山頂まで行かず、「親父!勘弁してくれ!」と途中で谷底に投げ捨てて逃げ帰るヤツもいる。
辰平が母を背負っていよいよ山頂にたどり着くと、はたして人骨だらけの死の指定席がある。おりんは黙ってむしろに座る。そして手を「行け」と振って息子を追い返す。それが楢山での作法なのだ。辰平は仕方なく山道を降りていくが、途中で雪が降ってくる。雪を見て辰平は「はっ!」として、急いで山頂まで駆け戻る。――私はてっきり思い直して母親を助けに行ったのかと思ったが――、違うのである。
座して念仏を唱えているおりんに向かって辰平は、「おっ母!良かったな!雪が降って良かったな!」・・・と。つまり一晩で凍死できると。
おっ母は運がいい・・・。辰平が家に戻ると、妻がしっかりおっ母の帯を締めて台所に立っていた。貧しき村に雪降りしきる・・・】
いずれは自分も息子に背負われて山に行くのだと、苦悩から達観に代わっていく緒形拳がとてもいい。新旧併せて観るのがお勧めだ。
はるか昔は謡にもあるように♪人間五十年~♪が一般的だった。七十歳というとかなりの高齢だ。発達心理学によると七十代は、体力は衰えるものの蓄積した教養と言語力はますます研ぎ澄まされるという。年取った母親を捨てられなくて隠していた息子が王様からの難題に母の知恵で答えるというエジプトの逸話があるように、昔の年寄りのイメージは「ものしり」だった。
――しかし!
いざ自分が年を取ってみると発達心理学など大嘘であった。昔は年寄りの知恵で仕事が回ったこともあったろう。しかし今は日夜新しいことを覚えていかなければ仕事にならない。私など脳味噌の劣化激しく、昔のことはよく覚えていても、買い物途中で何を探していたか忘れてしまう、風呂の水を溢れさせる。ましてや新しい機材やソフトの扱いなど到底無理。ついにファミレスまでタッチパネルになってしまった。入りづらいよ~~。
昔は脳味噌が劣化する前に亡くなったから年寄りは尊敬された。ところが現代医療は七十代で死なせてなんかくれない。特効薬も無いのに、身体中にチューブを繋がれて苦しみの中で何年も生かされる。私の叔父は手術と抗ガン剤の繰り返しで五年以上も無駄に苦しんで痩せ衰えて亡くなった。母は弟の苦しみを見ているから、延命治療も抗ガン剤も拒否してあっさり亡くなった。これには共感できる。私も死ぬのは全く怖くないが、苦しみの中で長生きさせられるのは御免だ。
癌にならなくても認知症にはなる。これがご高齢の皆さんが一番恐れていることだ。私の友人にも「認知症初期症状じゃないか?」と思える人がいる。あんなに穏やかだった人が急に性格が変わって自分勝手になったり、訳の分からぬことを言いだして「物とられ妄想」が始まったりする。しかし本人の自覚は全くない。哀しいかな、もう疎遠にするしかない。
だが家族なら放っておけない。近頃は若年の認知症も増えてきた。おかげで認知症マンガも増えてきた。認知症映画も増えてきた。
お奨めの認知症映画が、こちら。
○『ペコロスの 母に会いに行く』(2013・森崎東)--原作:岡野雄一。113分。
原作は漫画である。冒頭、アニメーションが流れる。たいへん好感度が高いキャラで、いまは別に短編アニメ(YOUTUBEで観られる)になっている。しかしこの実写映画も多くの人に見てもらいたい。森崎監督が八十六歳で撮った作品で代表作となった。この年の邦画ベスト・ワン。赤木春恵は八十八才の最高齢初主演でギネス認定された。
漫画家でミュージシャンでバツイチで無職のペコロス・岡野雄一(岩松了)が、認知症になった母みつえ(赤木春恵)に戸惑いながらもコミュニケーションを模索する物語――、
【頑張り屋でしっかり者だった母みつえが急にボケ出し、夫が何年も前に亡くなったことも忘れ、お客が来ていることも忘れ、自分の行動もすぐ忘れ、あぶない行動を繰り返すようになる。
汚した下着を大量に隠すようになり、ついにペコロスは母親をグループ・ホームに入れる決心をする。しかし入所してからの母は認知症が進み、面会にくるペコロスの顔もわからなくなる。禿げ頭を差し出すと「雄一か~」となでてくれるが、しまいに禿げ頭さえも認知できなくなる。
常に夢の中にいるように、みつえは人生を反芻していく。可愛い妹は幼いうちに亡くなった。親友ちえこは苦界に身を落としていた。しかし、みつえが生活苦から幼い雄一と心中をしようとしたとき、ちえこから手紙が届く。「何があっても生きていこう」と。しかし、ちえこは長崎での被爆がもとで亡くなっていた。
母みつえの人生は決して楽なものではなかった。しかし思い出の中で彼女に会いに来る夫や友はみな優しい。「みんな亡くなってからのほうがよく会いに来てくれる」とみつえは言う。母は家族の顔も忘れ、自分自身を忘れても、魂だけになって満たされて生きているのだとペコロスは悟る・・・】
現在と過去の映像が交錯して描かれ、わずかなエピソードで観客を感動させる。もう涙々だ。
しかし九州という土地柄もあるのか、まさに忍従を強いられる女性の一生だった。現代なら「こんな男いらんわ!」と三日で夫を返品している。夫婦の描き方が古いかもしれないが、いま認知症でホームにいる八十代以上の方々は忍従の時代に生まれ育った昭和世代の人たちなのだ。それに左門豊作並みに子だくさんの時代だったから、離婚したところで帰る家も無い。
長崎出身の森崎監督はマイノリティーのエネルギーを描く思想的な作品を多く撮ってきた監督だが、このペコロスでは素直に感動することができる。
認知症の御本人は満たされていても、現実は「魂だけの清らかな人」などと暢気なことは言ってられない。私の祖父のようにプリプリと大便をその辺にまき散らして、あまつさえ床や壁に擦り付ける。そういう認知症なら家族のストレスは半端ない。
家族では対応できないから当然施設に放り込みたい、しかし施設には空きがない。人手不足だ。だから政府は若者に「子供を産め」という。――こんな状態でどうして産めるか?それどころか自分の老後の心配までせねばならんのに!?せいぜいできることは積み立てNISAくらいだ。
家族に疎まれて暴言吐かれて、垂れ流しながら生きたいか?それとも身体中にチューブを繋がれて苦痛の中で生きたいか?それとも象の墓場のような楢山に行くか?
マジで罰ゲームだ。
五十年前「ブラック・ジャック」にキリコを登場させた手塚治虫はさすがだった。治りもしないのに生かし続ける現代医療に早くも警鐘を鳴らした。
これからは安楽死選択が必要な時代になってくる。大量安楽死をテーマにした名作が生まれるのもすぐだろう。映画は未来を予見してくれる。
だがいまは・・・。日本政府にそんな大胆なこと決められる度胸はないからね。泣いても笑っても、君は百年生きるのだ。
(了)
ロングハーベスト・ロードの殺人『ボディーズ』
二〇二三年にネットフリックスで配信が開始された「ボディーズ」というイギリス製作のミステリドラマがあります。全八回のミニシリーズ。手ごろな長さなので何の情報もなく見始めたところ、これが当たり。よくできたおもしろい作品でした。スリラーですから「ボディーズ」の意味は「肉体」じゃなくて「複数の死体」ですね。
舞台はイギリス、ロンドン。時代は現代二〇二三年、切り裂きジャックでおなじみ、ホワイトチャペルにあるロングハーベスト・ロードの路上で、男性の全裸死体が発見されます。片目に銃創があり、手首には奇妙な形の傷がある。これを捜査するのがペルシア系イギリス人の女性捜査官、シャハラ・ハサン巡査部長です。
お話変わって第二次大戦中の一九四一年。ロンドンはドイツ空軍の空襲にさらされています。チャールズ・ホワイトマン刑事は同じロングハーベスト・ロードで死体を発見します。しかも二〇二三年の死体と同じ顔、同じ傷、同じ姿勢、全裸。
さらに時代はさかのぼり一八九〇年、ビクトリア女王の時代。まさにジャック・ザ・リッパー事件の最中、ロングハーベスト・ロードは娼婦や男娼が商売をする暗く不気味な場所です。エドモンド・ヒリングヘッド刑事がそこで見つけた死体も同じ人物でした。しかも死体を解剖すると、目には確かに銃創があるのに、頭蓋内には銃弾がない?
この三つの時代の捜査が同時進行で描写され、あれよあれよという間に、さらにさらに時代は未来、二〇五三年に飛びます。未来世界ロンドン、女性刑事メイプルウッドが同じ場所で発見した死体も同じ人物。
四つの時代。同じ人物の死体が四つ。捜査する刑事が四人。
ね、わくわくするようなオープニングでしょ。
ミステリですが、実はSF。タイムトラベルものであることがしだいに明らかになります。
ヒジャブをかぶったハサン刑事
SFやミステリというだけじゃなく感心したのが刑事たちの造形。四人ともイギリス社会ではマイノリティなんですね。ハサンはムスリム女性の警官でヒジャブをかぶって生活しているシングルマザー。チャールズ・ホワイトマン刑事はポーランド系ユダヤ人で、もとの名前はカール・ワイズマン。同僚からのユダヤ人差別をかわしながら、実は裏の仕事にも手を染めているという複雑な人物。ヒリングヘッドは妻子を愛するきちんとした紳士ですが、実は隠れゲイで自分の性的嗜好に悩んでいる。メイプルウッドには脊髄疾患があり、背中に挿入した機械のおかげで歩くことができています。
捜査の進展だけじゃなくて彼らの生活も見どころで、人間ドラマでもあるわけですね。
で、この作品、原作がイギリスのグラフィック・ノベルであることを知り、原作はどうなんだろうと入手してみました。
コミックスは二〇一四年から二〇一五年にかけてDCのヴァーティゴレーベルから全八冊で発行され、のち一冊の単行本にまとまっています。DCヴァーティゴレーベルは二〇二〇年になくなっちゃったので、映像化に合わせて二〇二三年に再刊されたときはDCのブラックラベルから出版されました。私が買ったのはこっち。
脚本はシ・スペンサー。彼は一九六一年生まれ。イギリスのコミックやテレビドラマの脚本家で、残念ながら二〇二一年に急死しています。
コミックと配信ドラマ、ともに四つの時代の四つの殺人、四人の刑事。同じ謎が提出されます。ただし「現代」はコミックが発売された二〇一四年になってて、その他の時代も配信ドラマとは年代が微妙にちがってます。
おもしろいのは四つの時代をそれぞれ四人のイギリス人マンガ家(ディーン・オームストン、フィル・ウィンスレイド、ミーガン・ヒートリック、トゥラ・ロテイ)が描く趣向です。
これ、けっこう違和感なく受け入れられます。パートが別れているのと、複数のマンガ家がひとつの作品を描くという英米コミックのシステムに慣れているからかもしれません。
四人のマンガ家のうち、ダントツに味があるのが一八九〇年を担当したディーン・オームストン。誇張された人物や細い線で描きこまれた背景が不気味で、ジャック・ザ・リッパーがいたロンドンの再現がすばらしい。彼はシ・スペンサーと組んで多くの作品を作っています。
コミックは最初のうち配信ドラマと同じように展開しますが、読み進むうち、あれれ、ドラマとコミック、まったく別ものになってるじゃないか。これにはびっくりしました。
(以下ネタバレ)
配信ドラマでは終盤に謎解きがされ、以下のことが明らかになります。
ドラマの現在である二〇二三年、ロンドンは核爆発のテロにより大災害をこうむります。二〇五三年にはある程度復興していますが、この年、タイムトラベルを可能にする機械が発明されます。ある権力者がこれを利用して時代をさかのぼりビクトリア時代に向かいます。その時代でも彼は裸一貫からのしあがり権力者になり、秘密結社の首領になる。彼は一九四一年に死亡しますが、秘密結社は存続します。そして時は流れて二〇二三年、彼の子孫は秘密結社の協力を得て、ロンドンで核爆弾によるテロをおこします。そしてこの子孫が長じて、二〇五三年の権力者となるのです。
ああっ、これはかの有名な、自分の先祖が自分、というタイムトラベルのパラドックス。
ラストに向けてお話は、主人公たちがすでに起こってしまった二〇二三年の核爆弾テロ、これをタイムトラベルを利用して阻止できないかと奮闘する、ハラハラドキドキの展開になります。
じゃあ、四つの死体は何かというと、彼はタイムマシンの発明者。銃弾を受け瀕死となった彼がタイムトラベルのトラブルによって、四つの時代だけじゃなくてあらゆる時代に飛ばされそこで死んだ、という設定です。裸で銃弾が見つからないのは、ほら、映画ターミネーターでシュワちゃんが裸だったでしょ。あれです。有機体以外はタイムトラベルができないので裸になっちゃう、という設定のイタダキです。
意味深な手首の傷は。これ、タイムトラベルの時にできるものなんです、とあっさり片付けられてしまいます。
よくできたドラマなんだけど、細部にすっきりしないところがいろいろとある。原作コミックを読んでみることにしたのは、ここが気になったからでもあります。
ところが、原作コミックのストーリーは全く違うのですね。
二〇二三年の核爆弾テロは? ないっ。二〇五三年の権力者は? いないっ。じゃあ自分が自分の子孫であるというパラドックスは? ないっ。メインとなるプロットがまるまる存在しないじゃないか。いやあここまで違ってるとは思わなかった。
原作コミックでは、手首の傷に大きな意味を持たせています。死体の手首に特徴的な形の傷があるだけではなく、ヒリングヘッド刑事が死体の指紋を調べると、なぜか指紋に重なってこのマークが浮き上がっている。彼はビクトリア時代のロンドンのあちこちでこのマークに出会います。どうも古代から存在する秘密結社(ミスラス教団)が関係しているらしく、ヒリングヘッドの上司もこれにかかわっている。
戦時下ロンドンのホワイトマン刑事
戦時下のロンドンでは、ホワイトマン刑事が故買屋の上前をはねている(悪徳警官なんです)と、ローマ時代のペンダントにこのマークを発見します。
二〇一四年ではハサン刑事の父親が爆弾テロに合いますが、そこにはこのマークが。さらにモルグから死体が消えてしまい、そこに残されたのもこのマーク。
どうもこのマークは数千年前から存在しており、なぜか殺人事件後に刑事たちの前に頻出してくるのです。
ミスラス教団は何かたくらんでいる
もうひとつ、この作品のテーマ的な言葉が「KNOW YOU ARE LOVED」あなたは愛されている。一八九〇年にはミスラス教団の合言葉として登場しますが、一九四一年ではチャーチルまでもこの言葉を知っている。二〇一四年ではハサン刑事の同僚の刑事がこの言葉を口にする。二〇五三年では壁に大きく「KYAL」というスローガンとして描かれている。
とまあ、お話、風呂敷を広げる広げる。すでにひとりのタイムトラベラーによるテロなんかじゃなくなってて、イギリス史をめぐる大きな謎となってます。
コミックが配信ドラマといちばん違うのは二〇五〇年のメイプルウッド刑事の事情。彼女は今、記憶喪失で世界のことがよくわかっていない。メイプルウッド刑事は謎の少女と出会い、ふたりは行動を共にしますが、そこですれ違うひとびと、すべてが記憶喪失らしい。つまりこの時代のロンドン、なにやらえらいことが起こった結果、とんでもないことになってるらしい。
とまあ、何が何やらなのですが、コミック版、終盤の展開がさらにとんでもない。四つの時代の四つの死体が生き返って、それぞれの刑事の前に現れる。生き返ったというより、死体が消失して片目の男が登場し、刑事たちに絡んでくるわけです。
一八九〇年の片目の男は、ヒリングヘッド刑事をミスラス教団から救い出し、ヒリングヘッド刑事と同衾し愛し合う。一九四〇年では彼は政府の役人で、ホワイトマン刑事に幻想の真実を見せる。
二〇一四年での片目の男は警察署を爆破するテロリスト。そして二〇五〇年ではメイプルウッド刑事の記憶をよみがえらせて彼女を導く人物として登場します。
そして混沌のうちすべての謎が明らかになります。
メイプルウッド刑事、自分では忘れていましたが、じつは元・天才少女でタイムマシンの発明者。タイムマシンが悪用されるのを防ぐため、彼女はタイムマシンをぶっこわします。その結果、時間が狂ってしまい、タイムトラベルの実験台になっていた裸の男を超古代から現代まで無数の同一人物としてばらまいてしまった!
古代ではこの裸の男をまつったミスラス教団が結成されることになり、教団がイギリス史の裏で暗躍していく。
ロングハーベスト・ロードのヒリングヘッド刑事
そしてロングハーベスト・ロードの名にも意味がありました。「ロング・ハーベスト」すなわち「長き収穫」とは何か。どうも収穫とは死を意味しているらしい。すなわち収穫のときとは人類の終末。事件に巻き込まれた刑事たちの運命は……
配信ドラマは、原作を改変しちゃったものといえばそのとおりなんですが、きれいにまとめていて万人に受け入れられるSFミステリになっています。コミックは終盤、これどこへ行くんだというムチャな展開でしたが、これはこれでおもしろい。配信ドラマが八時間かけてじっくり人物や事件を描写するのに対して、コミックは全二百ページですからね。こじんまりまとまるより壮大さをめざしてます。
コミックのラストシーンの舞台はイギリスの古代遺跡でもあるグラストンベリー。そこでムスリムであるハサン刑事のイギリス国家への愛が語られて終わります。おおっと、そういう作品だったのか。
死体は古代から?