tokumaru29号
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熊本のマンガ関連3施設と北九州の文月今日子展(後期)行ってきました!
こんにちは、図書の家です。晩秋の11月下旬、北九州市漫画ミュージアムで開催されていた「デビュー50周年記念 文月今日子展」(9/16〜11/26)に行くタイミングで、足を伸ばして熊本まで一気に行っちゃおうということで、図書の家の小西・卯月・岸田3人はそれぞれ始発の飛行機に乗る勢いで、熊本空港に朝集合、一泊二日の熊本〜小倉のマンガなレポートをお届けです。
さてその熊本、空港が広くてスッキリしていてめちゃくちゃ綺麗で新しい‼と思ったら、なんと今年の3月にリニューアルオープンしたばかりのピカピカ☆でした。そして熊本といえば「くまもん」と並び、ご出身の漫画家である尾田栄一郎先生の「ONE PIECE」がドーンと目に付くところに。県内に麦わらの一味の銅像がガンガン建っているとのことで、いきなりすぐ「ONE PIECE」好きの友人へのおみやげを買う小西でしたが、3人揃ったところでリムジンバスでホテルに直行。荷物を置いて、まずは熊本城へ。
熊本城は震災で崩れた石垣の修復も進み、建設中の建物もあり、それらを見ながらぐるーっと回ってお城へと誘うおしゃれな空中?遊歩道。そしてお城は天守閣めざして6階を登る! 城中はとても今風なデザインで歴史紹介があって、全体に黒を基調にしたデザインがとても格好よかった……でもとにかく熊本は11月下旬なのに陽射しが強くてコート要らずでへとへとに……そして肝心なマンガ施設にまだたどり着かないです。
お昼は熊本郷土料理の「太平燕(たいぴーえん)」という、春雨スープに五目野菜と揚げ玉子を乗せたものをいただきました。やさしいお味でたいへん美味しかったです(お城での消耗を癒すために順番待ちの間にデザートを食べたのは内緒)。
さあ、午後はバスに乗って第1目的の熊本大学へ。今回の文月今日子展にあわせて刊行した『文月今日子の世界 最上級のロマンス・メイカー』(立東舎)で論考を書いてもらった日高利泰さんにぜひ熊大を見せてとお願いしていたんですね。ただこの日は、同じく熊大の准教授(思えば古いお知り合いでもある)池川佳宏さんに赤門前までお迎えいただき、大学を少し案内していただきました。
それにしても熊本って、空港からの道筋でも思いましたが、植物というか樹木の姿が雄壮というか大木のうねりも荒々しいというか、その様子が本州とは違うのです。熊大の赤煉瓦の素敵な近代建築である「五高記念館」(残念ながら休館日)の両脇にある楠の木も本当に巨木で……熊本城の前にある銀杏の木も同じく巨大でその黄金の葉のモリモリ状態も美しかったですが、熊本っていったい……と思っていたら、学内の道の脇で何かのトリが羽根をまき散らしているところに遭遇。何だろうと見たら、猛禽類(タカ?ワシ?)の子鳥?が同じくらいの大きさの鳩を食べているところだった! 私たちがその近くを歩いていても平気で食事をやめようともせず。ますます、ここは野生の王国なの!?とざわつく図書の家。
そして、夏目漱石の記念像(何年前?だったかにtwitterで夏目房之介先生がこの像の手の下におさまった写真がバズって有名なあの像です)を拝見しつつ、目的の「熊本大学文学部付属 国際マンガ学教育研究センター」へ。池川さんはこのセンターの兼務教員でもあるとのこと。それで、見せていただきましたよ、池川さん考案・熊本大学が実用新案を取得した「中綴じマンガ雑誌用収蔵ダンボール」を!(池川さんが使用方法や仕様を熱く語る写真:参照)
「1箱で24冊の中綴じマンガ雑誌を崩れることなく収蔵管理できます。月2回刊なら1年分、月刊誌なら2年分を背表紙の情報を可視化したまま保管・閲覧できます」という優れものなダンボール本棚なのですが、まだ開発されたて&送料込なので価格がちょっとお高いのです(5個セット/送料込/税込2万円)。現状は個人利用というより公共施設とかで収蔵保管を考えるのにはとても良いのではとのことなので、ご興味のある方は検索してみてください。最近X(旧twitter)でも話題になっていました。
そして〜この研究センターで、日高准教授の初の教え子・修士の学生さんに研究発表をお聞きするというラッキーがあり。ハーレクインコミックについての研究だったのですが、図書の家でも今年は松苗あけみ先生と文月今日子先生という、まさにハーレクインコミックを手がけた作家のお二人の特集本を作って結構調べていたこともあって、興味深くお聞きしました。彼女はまだまだこのテーマを深めて調べていきたいとのことだったので、心から応援でございます(また拝聴する機会ができるといいな)。
夕方は、また繁華街のほうへ戻り、蔦屋書店熊本三年坂店で最終日だった「梶原一騎原作(作画:影丸譲也)の「あゝ五高」企画展」へ連れていってもらいました。ちょうど見たばかりの熊本大学(五高)が素材のこんなマンガがあったんだ〜という。梶原一騎先生も熊本ゆかりの先生だったんですね(これは2日目の話に繫がります)。
そしてその後は晩ご飯の居酒屋へ。ここで馬刺しとかお刺身とかステーキとかちょっとずつ皆でいただき、日高さんとも合流。図書の家の仕事をもっと続けてやっていきたいので運転資金よ天から降ってきてという小西の切なる声を地酒を飲みながら聞いてもらいつつ(苦笑)、夜は更けていきました。
さて2日目ですが前日晩に突発的なことがあり、急遽この日は岸田と小西のみで行動することに。次の目的地は「合志(こうし)マンガミュージアム」。そこに行くには熊本電鉄に乗らねばですが、ホテルからその駅がちょっと離れている。15分で行けるのか?とスマホ片手に歩くものの、紙地図とホテルマンに聞いた道筋とスマホではすこし違って、行ったり戻ったりしてたどり着いた駅で目の前に乗りたい電車が(ここが始発)。さっき前を乗る人が走っていったし、タッチする機械も無いし、大急ぎで切符買わねば!と窓口で「●●駅まで2枚!!」と叫んだら「切符売ってません!運転手まだ乗ってないのでまだ乗れます大丈夫!!」って返されて、まるでバスみたい!?ってことで、セーーーフでした!
そんな感じで無事、開館前にたどり着いた合志マンガミュージアムなのですが、図書館の(それも天文台併設の立派な)隣にあるんですよ。良い環境じゃないですか〜図書館の隣にマンガが読める施設があるなんて。スペースこそこじんまりとしていましたが、壁にはぐるっと「手に取って自由に読める」本棚があって。基本的には年代順に棚が区切られていて、その中で五十音順に少年少女青年物が一緒に混ざって並べられているという構成。奥の方には展示スペースがあって貴重な昭和時代の貸本があったり、壁の上部にはさまざまな懐かしい雑誌が配架されて雰囲気を出していました。部屋の真ん中にはキューブ状の「読めるスペース」が何個も。この感じは、以前行ったことがある「立川まんがぱーく」の雰囲気と同じ、ここで読んでみたいなというわくわく感を感じました。入り口は特別テーマなのか「妖怪」と「忍者」の特集棚があり。そうそう、展示スペースには「講談社マガジン作家による「くまもん絵」の寄せ描き」というのもあって、ここは岸田小西ペアなのでやっぱり推しの諫山創先生をパチリ(進撃の巨人アニメファイナル良かったですね涙)。
……とひとしきり楽しんだ後、タクシーで15分くらいの「菊陽町図書館」へ移動です。菊陽町図書館には、「少女雑誌の部屋」というのがありまして……、そこには夢のように大正、昭和の少女雑誌がたくさん所蔵されているのです。一度は行きたいと長年思っていた菊陽町図書館、調べ物の予定はなかったんですが、時間が少しとってあったのでやっぱり、お部屋のご担当さんに無理をお願いして、調べてしまいましたよ‼ 牧美也子や高橋真琴先生を。普段は距離があるので(横浜と大阪)岸田と一緒に雑誌を閲覧できる機会はそうそうないため、都合1時間強。その年の付録も拝見させていただき、本当に助かりました(拝見した年は全号揃ってはいませんでしたが、流れは見えたので助かりました)。『想い出の少女雑誌物語』(村崎修三著 ※菊陽町図書館の貴重なコレクションの母体は村崎さんが図書館に寄贈されたものです)も飾ってあり、お聞きしたらこの本の購入もできました。ありがとう菊陽町のご担当さん……そして図書の家の編集した特集本も何冊も所蔵していただいており、棚にありました。『かわいい!少女マンガ・ファッションブック』がここにあったのが本当に嬉しかったです。
そしてここからまたタクシーでJRの三里木駅へ。この豊肥本線を走る車両が、ヘアライン金属面にヘルベチカフォントで黒で「Commuter Train 817」ってしゃって刷ってあって、中のシートとかも漆黒でめちゃくちゃ格好よくてですね……熊本、城に続いてデザイン素敵だな、とかなりドキドキしました。さらにその後は、熊本駅で待ち時間があったのでデパート?のフードコートで遅い昼食を……とぐるぐるしてましたら、お二人連れの高齢女性が召し上がっていた抹茶ソフトクリームが凄く美味しそうで……つい回りをウロウロしていたら話しかけてくださって、いきなり地元の方と談笑タイムを繰り広げてしまい。そこで昨日にわかに知識を得ていた「熊本ゆかり=梶原一騎=巨人の星=左門豊作の熊本弁(確かに「ばってん星くん〜」と言ってましたね)」をネタにしまして。高齢なお二方も「巨人の星」はご存じで、さすが昭和の国民的マンガ、誰でも知っている!話題に困らないと感謝するこの時。名物「いきなり団子」もゲットして、次の小倉へ新幹線「さくら」で向かう私たちでした。
予定より40分遅れでたどり着いた「北九州市漫画ミュージアム」。文月今日子展は前期後期で100点ほど展示替えがあって、都合400点以上の原画や資料が見られた大規模展示でした。基本的には短編作家な文月先生、とにかく紹介している作品が多くて、原画はあれもこれも見逃せない、たいへんファン泣かせな展示でした。小西は前期も見に来ておりましたので比較的冷静に拝見しましたが、やはり何度も通いたい展示というのがあるなと思いました(じっくり見切れない……見たいものが多すぎて……)。そして、北九州が遠すぎて行けない、近くに巡回して〜という声がネットで多数だったのですが、そんな皆さんにぜひと思うのは、お近くの美術館やギャラリーにこそ、要望を出されることです。要望はアンケート用紙でも何でもよいので、来てほしいと思う場所にこそ、そのお声を届けてください。お客さまの声が一番、施設とか組織を動かす原動力となるのです(本も一緒です)……なにとぞ〜〜。あ、文月展には『漫画の手帖』でおなじみの笹生那実先生の、文月先生への御祝い色紙もありましたよ! 笹生先生が文月今日子初のサンデー投稿作「ゆうれい小僧」を覚えていて、その後に文月先生がフレンドでデビューしたときに作者をちゃんと繋げていたというのが、本当に驚愕です流石すぎます!
……という大長文駆け足の九州レポートでした。スマホ行方不明であわや電車乗り遅れか、とか事件もありましたが、戻りの新幹線でも鯖寿司&いきなり団子を食べることができて、すべてが美味しく充実した2023年の旅は終了しました。ではではまた2024年に!
宝塚マイナス1
ジャニーズ事務所と宝塚という、良く知られている二大エンターテイメント組織の不祥事発覚◦追求、が進んでいますね。
ついによーーーやく、セクハラ、パワハラ、いじめ、見て見ぬふり、密告犯探し、口止め、揉み消し、隠蔽、干す……といった、陰湿な体質が改善方向かと思いきや、体育会系の宝塚のほうは、幹部に危機感がまるでない対応。
「友情、努力、勝利」と並んで有名な「清く、正しく、美しく」ですが、創業者の唱えた一番最初は、その前に「ほがらかに」が付いていたのだそうです。
「ほがらかに、清く、正しく、美しく」
絶対、これに戻したほうがいいでしょう。
ユーモアがない舞台、人生なんて。
ブラックユーモアばかりのニュースにはうんざりです。
そういえば、新作のゴジラ映画も、マイナス・ユーモアの、マイナス1でしたね。
京都精華大学マンガ学部
ゴジラ年生まれ
佐川俊彦
ヨイコノウワサ
ラブライブ!合同誌イラスト
第一回 きっかけはラブライブ!
ひょんなことから、こちら「漫画の手帖」に書かせていただくことになったエッセイ――いや、むしろ奮闘記。実は私、職業:探偵小説家でありながらここ十何年、いや、さかのぼればもっと昔から「漫画が描きたい」という願望を持っていて、でもあいにく挫折また挫折をくり返してきました。
おそらくそんな人は多いのだと思います。「描ける」人たちからは想像もつかないのでしょうし、おそらく関心もないことでしょう。でも誰もが文章を書けるように漫画を描けたらどんなにか楽しいでしょうし、SNSが発達し、イラスト投稿サイトも充実した今、そう思う機会はきっと増えている。
あいにく世に流布している漫画の描き方本は、そうした〝今さら漫画を描きたくなった組〟を相手にしていないし、志が低いと叱られるかもしれませんが、超絶技巧は要らないし、筋肉や骨格の勉強よりも、まずは自分の中にある物語や人物を早く外に出してやりたい人への手引きはほぼ絶無といっていい。でも、ひょっとしたら、そこまでの道程は「描けない」人間にこそ示せるのではないか。たとえ道半ばで斃れたとしても……。
そんな話を、二〇二三年十月に開かれた永野のりこ先生の個展でお会いした堀内満里子さんとしていたら、いっそそれを書かないか。そしてあわよくば、漫画の実作に乗り出しての試行錯誤を実況できないか――ということになったのです。さて、そこまで行き着けるかどうか。まずは少しばかり過去にさかのぼるのにお付き合いください。
たぶん、子供のころからずっと漫画を描きたかったのだと思います。母がドッサリとためこんでくれていた包装紙の裏にいろんな絵を描きまくる。でも、自分よりうまい子はいくらでもいて気後れするし、メチャクチャでデタラメなギャグ的キャラは描けても、当時で言う「ストーリー漫画」系のかっこいい人物は描けるわけもなくて挫折してゆく。
おそらくそんな子たちは多かったことでしょう。何しろ当時のアマチュア漫画家はプロ一択のうまい人ばかりで、学年どころか学校に一人か二人いればよかった方じゃないでしょうか。少なくとも僕の周りには一人もいませんでした。
その後、活字で語る物語すなわち小説の自由さと表現の豊饒さに気づいて、そっちの道に進んだんだけど、ときどき漫画熱は復活し、かの手塚治虫著『漫画の描き方』もすぐさま買っちゃったりしたわけです(いま調べたら浪人中の刊行じゃねぇか。そのころも小説書いてたし何やってんだ自分)。
でも、数年ごとにチャレンジしても「絵」で毎回つまずいて、また願望は沈んでゆく。そのうち同人誌文化というのが発達して、描きたいものがあれば絵の巧拙ではなく発表できると知っていい時代になったなと思ったのですが(そのくせ最初に見せられた二次創作同人誌が、「ふしぎの海のナディア」の凌辱人種差別本だったせいで、長らく偏見と嫌悪を抱くことになりました)、そうした絵のレベルに達するのさえ難しくて、あきらめざるを得なかったわけです。
そうした一方、二〇〇七年からニコニコ動画で、アイドルマスターのキャラ絵やキャプチャを使ったいわゆるニコマス動画(「森江春策P」で検索してみてください)を作り始めたのも、二〇一〇年に「絵が描けなくても漫画が描ける」という触れこみのコミpo!が発売されるとすぐに飛びついたのも、要は「自分の漫画」が作りたかったからでしょう。それほど「絵を描かずにすむ」というのは魅力的だったのです。
でも結局のところ、既存の立ち絵や3Dモデルを組み合わせ、そのポーズなり動きが本来持っている意味を歪め、別のシチュエーションにこじつけて、自分の作品を作るということに限界を感じてやめてしまいました。
たとえば、コミpo!の土下座のポーズをぐりぐり動かすと、念力ビームか何かでぶっ飛んでいる姿になったりするのですが、そんなのを見つけるのは面白いけど大変。めちゃくちゃストレスがたまります。最初から絵が描ければこんな苦労はないものをと思うものの、そもそもそれが無理なんだからしょうがない。
一つの転機は二〇一一年の初めに企画された「ラブライブ!」合同誌に参加したことでした。それはあの空前のヒットシリーズがまだテレビアニメになるとは噂話さえなく、わずかなPVと楽曲、イラストストーリー、そして声優さんたちのイベントのみで喝を癒していたころです。なぜまたそのファンになったかと言いだすと話は長くなり、これまた私の長いテーマの一つである「女の子集団による冒険活劇を書きたい」という話につながっていくのでお預かりとさせていただきましょう。
とにかくツイッターという新しい手段で知り合ったファンの若い人たち、当時はラブライバーという言葉もなくて「ラブライ部員」とかいったのですが、そのみんなで同人誌を出そうということになった。二〇一一年五月四日に行なわれるG‘sマガジンオンリーイベント「Gal Gamer Generation」にラブライブ!合同本を出そうというもので、これに僕は乗りました。
もちろん小説での参加のつもりでしたし、先方もそれを期待していたと思うのですが、そのときハッとしたのです。あくまでビジュアルで構成され、目で見てかわいい美少女たちにオマージュするとき、それは文字でいいのか、と。
その合同誌には、後にプロのイラストレーター・漫画家となり、ラブライブ!の公式画家(ちびキャラ)にも起用される清瀬赤目さんなど、すでに絵を主たる表現手段にしている人たちもいたけど、同人誌への参加自体が初めてだったり、ほとんど絵を描いたことのない人もいるようでした。それが、このまだ海のものとも山のものともわからない架空の美少女たち(当時はそもそも「ラブライブ」が何なのか設定されておらず、他校にスクールアイドルがいるのかどうかさえ不明だったのです)を自らの手で描き出そうとしている――。
そこで、私は決心したのです。これが人生のラストチャンス、この合同誌に参加するのにかこつけて、何か漫画――とまではいかないが、漫画風のイラスト一点でも描いてみようじゃないかと。〆切までは何か月もないが、とにかくそれを目標にやってみよう!
この合同誌の告知や参加表明リミット、原稿〆切などは今となっては定かではないのですが、二〇一一年二月二十四日に参加表明のメールを送っていますから、たぶんその前後一か月ぐらいの間のことでしょう。そして、その前日、私はこんなツイートをしているのです。
芦辺 拓 @ashibetaku
すっげー幼稚な質問します。今ここにおいでの@XXXXXXXさんや@YYYYYYさんらは基本何で、というかどうやって絵を描いておられるんですか。どこまでが紙の上で、どういう手順とソフトを使ってられるのか知りたいですね。何をするつもりだってのはまぁアレで。
いや、ほんとに何も知らなかったんですよ。手描きイラストをデジカメで撮ってネットにupしている人がいましたが、その程度の認識。そしたら次々と回答やアドバイスが来て、その結果は「急にPCで同人漫画描きたくなった中年作家にみんなで知恵貸し」(https://togetter.com/li/106281)としてまとめられました。
さあ、これで最低限というよりは最底辺の知識を得たものの、そもそも漫画絵を描くというのがどういうことかわからない。そのうちにずんずんと日は過ぎ、〆切は迫ります。そんなさなかの三月五日に開かれた、その一年前に亡くなった友人作家のための集い「北森鴻さんを偲ぶ会」の二次会で、とても思い出深い出来事がありました。
私や北森さんとはミステリ仲間でもある漫画家の野間美由紀さんに、これこれこういう事情で漫画を描きたいんだけど、僕にできるでしょうか? とか何とか、いきなりな質問をしたのです。そしたら野間さんはにっこり笑って、その場にあった舟形の皿を指して、「これを描いてみて」。わけもわからず持参のノートに描いてみせると、「あ、これならだいじょうぶ」とのお言葉です。
何でも野間さんはアシスタント志望にこういうテストをするそうで、稀に立体視ができず、真上か真横から見た平面図しか描けない人がいるというのですね。続いて、「どのキャラが描きたいの?」(好きな子は誰? だったかな)と訊かれたので、スマホにご贔屓だった東條希を出したら「じゃ、描いてみてください」と!
いやー、頭真っ白になりつつ、周りに人はいっぱいいるしで必死で描きましたよ。気恥ずかしさもあり、何とかこの公開処刑(そんなに誰も見てはいませんでしたが)を終わらせようとササッと雑に描いてしまいました(いま思えば、まさにそれが私の欠点でした)。すると野間さん、「フーン」とおもむろに鉛筆を受け取って、サラリサラサラと描いてくださったものです。初見にして短時間にもかかわらずのみごとな出来栄えに感心していると、
「(同じキャラを)三十枚も描けば何とかなりますよ」
その言葉に勇気づけられた結果、いよいよくだんの合同誌にとにかく何か描いてみよう――そう決意した、東日本大震災の六日前のちょっとした一幕でした。
そのあとの誰もが知る混乱と変転のあと、ラブライブ!合同誌「μ’s collectionみゅーずこれくしょん」は刊行されました。そこに私は〝痛快猟奇少女探偵活劇〟と銘打った小説「成層圏ミイラ団 完結篇 または九つの惑星の誓い」を寄稿し、そこにいろんな人たちのアドバイスを取り入れ、邪道なテクニックも組み合わせ、一ページ大のイラストを描きました。
さて、それから私は次々と作品を描き上げ、着実に腕を上げていったかというと……そうではありません。そうなっていれば、今ごろこんな奮闘記など書いてはいないわけで、ではその後何があったかにつきましては、また機会をあらためまして。