■TOKUMARU29では私が80年代後半から90年代前半にかけて作成していたミニコミ「啓蒙天国通信」と、そこで取り上げた人々によって作られた特殊マンガ同人誌「ブロイラー」に至る話などぼちぼちとさせていただきました。そこでは「啓蒙~」がコピー誌だった8号までの話を中心にお話しましたが、今回はオフセット誌として誌面刷新してからの話を中心にササっとさせていただこうかと思います。
■誌面刷新する前の「啓蒙~」は、私がもっと活躍して欲しいと思う個性的なマンガ同人作家を紹介し後押しするような目的のものでした。その先には、その作者らが予定調和でマンネリ化したマンガ同人誌即売会の世界に風穴をあけてくれるところを期待するところがありました。
その目論見はかなり実現し、ピックアップしてきた「KERO4」「秘密結社Q」「腸チフス」の人たちで「ブロイラー」という新しい同人誌を作ろうという話となっていました。「啓蒙~」は当初の目的をほぼ達成した感じになっていたので、次のフェーズに移行しようと思いました。
■私はマンガオタですが、小学校高学年の頃はラジオの3つの放送局のベストテン番組でのヒットチャートを記録する歌謡曲ベストテン番組マニア、中学になってからは、小学館の「FMレコパル」を定期購入してカセットテープにフォークソングやロックを録音するエアチェックマニアでもありました。
80年代に入りレンタルレコード屋がぼちぼち出てきます。大学生になり家庭教師のバイトなどもはじめて多少金回りもよくなり、レンタルレコ―ド屋の利用もし始めます。
その頃はいわゆるインディーズのバンドが話題になり始めた頃で、バンドブームの前夜的な空気がありました。当時、茅ヶ崎駅北口の商店街「エメロード(旧・茅ケ崎銀座)に「リズムボックス」というレンタルレコード屋があり、その店の品ぞろえがインディーまで扱うマニアックぶりでした。
私は80年代中頃に就職し、更に自由に使える金が増えたので、土曜日になると「リズムボックス」と、あと「ツタヤ」も利用して、それぞれ限度ギリギリの6枚を翌日返却で借りてきて計12枚をダビングし、それを平日の通勤時間・往復で4時間弱の間にウォークマンで聴き倒していました。
また、当時のサブカルの先端をいっていた雑誌「宝島」を毎号購入しはじめ、更に、ちょっと意識高い的な音楽雑誌「ミュージックステディ」をBNまで買い揃えて研究し、それでまた新たなレンタルの参考にしていきます。
就職して一年して大田区のワンルームマンションで独り暮らしを始め、仕事終わりに都内のライブハウスに行きやすくなり、情報誌「シティロード」を頼りにライブハウス通いが始まります。「新宿エジソン」などインディーズを扱うレコード屋も身近になり、ぼちぼちレコードの購入もはじめました。
ちなみに、代々木公園のホコ天で演奏するバンドも出てきていましたが、正直あまりそちらには足が向きませんでした。
■オタクというと、マンガやアニメの話しか出来ないみたいなイメージがあり、それが不満でした。私自身は、勿論マンガは大好きでしたが、前述したようにロック・サブカル方面にも前から関心があり、そして社会問題、思想方面にも関心がありました。これらはバラバラのベクトルに思えることですが、複数のことに関心を持てるし、それらはどこかで緩く繋がってもいるかも。それまで関心外だった方面の記事も関心を持って世界を拡げてもらいたい、そんな、オタクらしからぬようでいて、実はめちゃオタクらしいアプローチのミニコミを作りたいと思うようになっていました。
そうして広げた販路や読者を通じて人脈も広げ、「啓蒙~」8号までにオルグしてきた「腸チフス」や「秘密結社Q」…後の「ブロイラー」を作り出す人々をそっち方面にも売り込んで行きたいな、といった目論見もありました。
そうしてB5版のオフセットのミニコミとして刷新した「啓蒙~」9号は、巻頭に、当時の人気番組「イカすバンド天国」に出演したガールズバンド「マサ子さん」へのインタビューを持ってきました。彼女らは「KERO4」の本間雄二さんが旧知の仲で、その関係で私もデビューライブから知っていての抜擢でした。
「啓蒙」9号は「新宿エジソン」や、新宿御苑そばの小流通出版物取扱店「模索舎」などに委託販売してもらい、ミニコミとしてはまずまずの売り上げを達成します。創刊準備号的な位置づけの号でしたが、出だしは良好でした。
■さて、次の「啓蒙」10号ですが、この平成バブルの頃、勤め人である私は本業の方で大阪や神戸に泊りの出張をすることが増えてきました。
この時期、前述した「イカすバンド天国」が牽引するような形でバンドブームとなり、番組に出たバンドは「イカ天バンド」と呼ばれてもてはやされるようになっていました。
このバンドブームというかイカ天ブームで、バンドが売れる機会が増えそれで食っていけるようになったことは良いことなのですが、知ったかぶりした記事を書きたいミニコミ制作者の身としては、イカ天ブームの後追いみたいなことはしたくないところです。
そこで関西です。関西の放送局ではイカ天がネットされておらず、しかし関東圏に対抗し得る確固とした音楽シーンが存在する。こりゃ知ったかぶりの宝庫じゃないか。
ということで、出張のついでに調査を開始します。
■まずあたったのは、大阪でパルコ的な位置づけの梅田の複合商業施設「阪急ファイブ」5階の「駸々堂」です。マンガ・アニメ関係を扱う関西のオタクのメッカ的な存在であったこの書店では、各種サブカル系のミニコミの委託販売なども行っており、そこでいくつか音楽系のミニコミを入手、そこからキーを拾い調査につなげます。
関西圏のサブカルに大きな影響を与えた情報誌「プレイガイドジャーナル」…「ぷがじゃ」は既になく、「Lマガジン」を情報源にして大阪ミナミの難波BEARSや十三ファンダンゴ、京都のどん底ハウスのようなライブハウスにも足を運びはじめ、そこで配布されている「花形文化通信」のようなフリーペーパーやビラの類からまた調査につなげます。
西心斎橋、いわゆる「アメリカ村」にあるレコードショップ「KING KONG」もまた関西のシーンを知る上での有効な情報発信源でした。ここらで入手した「白旗聞者」のようなオムニバスカセットマガジンは大いに参考にさせていただきました。
でまあ、これら関西のサブカルをどういった切り口でまとめていこうか考えましたが、調べを進めているうちに、東京なら音楽なら音楽、マンガならマンガ、お笑いならお笑いというジャンルだけで十分成り立つためにそれだけでかたまっていますが、関西ではそれらが繋がった形になっているのが見られ、そこが面白いなと思いました。その象徴的な存在が、阪急ファイブ駸々堂で入手した「コミックジャングル」という雑誌でした。「音楽の聞こえるコミック集」という謳い文句のこのマンガ雑誌は、巻頭に河内音頭の河内屋菊水丸や、後にモダンチョキチョキズのブレーン的な存在の一人となる安田謙一さんのバンド「タマス&ポチス」などが紹介され、そして関西在住のガロ系マンガ家の森元暢之や東元らのマンガ作品を掲載、中島らもや川崎ゆきおらのエッセイが載りと、まあ誌面はマンガ同人オタク向けというよりはガロ的サブカル向けとでもいう感じ。編集発行人のガンジー石原さんはもともと「ぷがじゃ」のスタッフで、80年代ニューウェーブを代表するマンガ雑誌「漫金超」を発行した編集プロダクション「チャンネル・ゼロ」の村上知彦氏らとも親しく、「まんきんちょJr」などという本も作っていました。「ぷがじゃ」や「漫金超」といった関西発のサブカルの正統な流れをくんだ雑誌と言えそうです。
この「ジャングル」の中にもちらほらと名前が見えるのですが、文献調査の一環として読んでいた故・中島らものエッセイ集「変」によると、「関西若手奇人三羽烏」と呼ばれる人らがおり、どうやら変なミニコミを作っていたりバンドをやっていたりイベントでワケのわからんことをやっていたりもしているらしい。
その三羽烏とは、保山宗明王、吉村智樹、鮫肌文殊、の3人。毎日出るミニコミを作ったり、後のモダンチョキチョキズにつながる系統のバンドのライブ会場で、観客でありながらそのパフォーマンスのため出演者なみに目立ち、後にモダチョキのメンバーとなった保山さん、看板ウォッチャーとして宝島のVOWでも名を馳せ、「月刊耳カキ」という「へーみたいな」ミニコミを作り、「吉村うみぼうず」というバンドも率いる吉村さん、「ビックリハウス」の投稿コーナーで常連として名を馳せ、やはり「捕虜収容所」というパンクバンドを率い、現在は「古舘プロジェクト」に所属し多くのヒット番組の放送作家として活躍する鮫肌さん、と個性が際立った三人でしたが、このうち保山さんと吉村さんはミニコミを作っている。「コミックジャングル」は一応商業誌ですが限りなくミニコミに近い。「タマス&ポチス」の安田謙一さんも「3ちゃんロック」というミニコミを作っている。これはミニコミという括りで扱うと収まりがいいかなーと思い、そういうまとめ方にしました。
それで、ミニコミの奥付などを頼りにアポをとり、ガンジーさん、安田さん、保山さんに吉村さんにインタビューをさせていただきました。ここでは細かい話は出来ませんが、まあ、根掘り葉掘り興味深い話を聞かせてもらいました。知識の増えた今ならもっと突っ込んだ質問をしたかもですが、まあ、ちょっと前まで殆んど何も知らなかった東京モンとしてはよくやった方だと思います(CRAC野間さんからも褒めてもらいました)。
ミニコミではないですが、カセットブック「白旗聞者」を出す厚見伴生さんにもインタビューさせてもらい色々聞かせていただきました。その後、そのカセットブックに収録されているバンドのカセットやレコードを購入したりライブに行くなどすることになりますが、そこで聴いた「カバ」の勝野タカシさんや「積極的な考え方の力」のビッケさん(後に「ラブジョイ」を結成)は私の人生のうちで5本の指に入るフェイバリットアーチストとなります。
ちなみに厚見さんは「砂場」というバンドもやっていて、後に「イカ天」にも出場しますが、このバンドのボーカルを務めていたのは、後にモダンチョキチョキズで活躍することになる濱田マリちゃん。当時から光るものを持っていました。
■関西ではミニコミや音楽関係だけ探し回っていたワケではなく、街を散策する中で、日本最大のコリアンタウンである生野区の鶴橋、桃谷駅界隈、いわゆる「猪飼野」や、日雇い労働者の町、あいりん地区とか釜ヶ崎とか言われる土地があることを知り、そこらを歩き回ることになります。そこで刺激を受けて東京に戻ってからも調査を続けて、川崎のコリアンタウンや東京の山谷、横浜の寿町などのドヤ街に足を運ぶようになり、これらの潜入レポートを書きはじめます。
今から見ると多分に興味本位・覗き見趣味のスラムツーリズム的なものであり、一応それを糊塗するために書籍をそこそこ読んで歴史的経緯や行政への批判など書いていますが…かなりお恥ずかしいレベルの出来です。
まあそれでも、前半の関西のサブカル特集、後半の社会派的な硬派な記事といったスタイルのミニコミとして「啓蒙~」10号は90年7月に発行の運びになりました。
印刷は、大学漫研時代にお世話になっていた、コミケカタログでもおなじみの共信印刷さんでしたが、担当者さんが記事内容から色々と話をしてきてくれたので、関心を持って読んでくれていたのがわかります。感触良し。
「啓蒙~」10号は、9号同様に新宿エジソンや模索舎で委託販売してもらい、同人誌即売会でも販売、売れ行きは好調でした。
「啓蒙~」は関西でも委託販売してもらうことにします。阪急ファイブ駸々堂と、あともう一つ、西心斎橋の雑居ビル内にあったサブカル雑貨店「SHOPへなちょこ」です。そこは、フリーペーパ―「花形文化通信」の繁盛花形本舗さんのオフィス?やガンジー石原さんの仕事場とシェアするような形の空間で、店長は、嶽本野ばらさん。彼は絵を描かせても非常にいい味の作品を作り出しその才能を買っていましたが、後に深田恭子が主演で映画化された小説「下妻物語」を執筆することになろうとはその時は思ってもいませんでした。
「へなちょこ」は「啓蒙~」を委託販売してもらっていたこともあり、関西に赴いた際には必ず寄る、いわば拠点となります。そして多分、保山さんや吉村さんの人脈の方々や彼らのファンがこの場で購入してくれたようで、ちょっと界隈で名が知られた存在になったようでした。
本当は京都や神戸にも「へなちょこ」のような委託販売をしてもらえる拠点を設けたかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。
「啓蒙~」10号はそこそこ好評を得て、「宝島」でも二度にわたって扱っていただき、「宝島推薦ミニコミ誌ベスト3」なるものでは、老舗の「車掌」さんをおさえて2位につかせてもらっていました。それがまた委託先での売り上げを押し上げたようです。
■さて、続いて11号ですが…10号で特集した関西のサブカルではまだまだ紹介しきれないで残っているものがありました。
まあベタですが、大阪といえばお笑い、そして、10号で取り上げた人たちの界隈では「上方漫才血まつり」という、吉本の若手芸人と、普段ロックをやってる人らが同じステージに上がってお笑いをやるという定期イベントが行われていました。会場はゴリゴリのロックなライブハウス、難波BEARS。主催するのは「マンスリーよしもと」の編集者である仲谷暢之さんで、「雨上がり決死隊」や「FUJIWARA」、「バッファロー吾郎」、「スミス夫人(なだぎ武)」といった、今となっては錚々たるメンツが揃っていましたが、当時「二丁目劇場」でも沈滞していたことがあり、彼らに新しい機会を与える意味合いもあったらしいです。このイベントの模様はライブレポートとして書かせていただきました。
私はもともとお笑い関係にも関心がありましたが、このイベントによってNSCの7~8期生あたり、後の「吉本印天然素材」のメンバーに関心を持ち始めます。そしてその関心は更に関東の若いお笑い芸人さんにも向きます。
もともと「お笑いスター誕生」に出ていた「象さんのポット」というコンビが非常に好きでしたが、ちょっとTVで姿を見なくなったなーと思っていたら、どうやら他の芸人さんとお笑いイベントに出ているらしいという情報を入手、そのイベントに足を運びます。イベント名は「大恐慌」、残念ながら私がそのイベントに足を運ぶようになった頃には「象さんのポット」は抜けていましたが、へらちょんぺさんを中心に無名の若手芸人さんたちが頑張っており…正直、「血まつり」の吉本の若手と比べると見劣りするかなーと思うところはあったものの、何とか推したいところもあり彼らへのインタビューを行いこの号の中心に据えた形で掲載しました。
この後、「大恐慌」の人らが関わるイベントなどに足を運んでいるうちに「象さんのポット」にもたどり着きますが、それはまた後の話。
■11号後半の硬派企画は、関西でしばしば遭遇した被差別部落の存在に刺激され、この問題を扱うことにします。
部落問題全般の基本的な話から、東日本における被差別部落の在り方、街道との関係や明治期以降に東京に数多く発生した貧民窟との関係やら解放運動やらの話を盛り込み、ただの覗き見趣味のスラムツーリズムにはしない…そういう特集にしたつもりですが、まあ内実は覗き見趣味の誹りを逃れません。ごめんなさい。
ただまあ、参考のために関係する書籍はそこそこの数を深く読み込み、その中から約30冊を紹介したりと真摯な姿勢を見せていたお陰か、社会運動に関わる人たちから批判されたとかいったことはありません。
■11号では、真ん中あたりに特殊マンガ同人「腸チフス」の「GAS BANANA」に掲載された田中宏文さんの作品「蟻屋敷」を転載させていただきました。もともと「啓蒙~」は「腸チフス」や「秘密結社Q」などの執筆者を売り出すために作ったようなものでしたが、彼らが作った「ブロイラー」もこの11号が出る頃には既に解散状態。ここでの転載は今更ではありましたが、まあ「啓蒙~」の初志貫徹といった感じです。
11号の発行は91年の6月。そして更に12号の制作にかかります。
■「イカ天」は90年末に終わり、バンドブームは冷え込んでいきます。91年9月からは「吉本印天然素材」の放送が始まるなど、時代の流れは変わりつつありました
この頃私は本業の方での関西方面の出張も減りますが、自腹で関西を訪れるなどして関西発のサブカル調査は変わらず続けています。というか、10号でピックアップした保山さんや吉村さんや安田さん、ガンジーさんや厚見さんの界隈にいた関西のちょっと面白な人々が、「音楽の百貨店バンド」と謳われた「モダンチョキチョキズ」に集結し始めており、91年3月には東京初ライブが行われるなど、彼ら彼女らの方が東京にやってきてくれる状況になっています。
■東京のお笑い集団「大恐慌劇団」の方も追い続けて、というかつるんでいましたが、ある日の恵比寿でのイベント終了後に入った喫茶店で、たまたまインディーレーベル「ナゴムレコード」の社長でバンド「有頂天」や「劇団健康」を率いるケラさん、ケラリーノ・サンドロビッチと遭遇。大恐慌のメンバーにケラさんと旧知の人がいたことから、ケラさんとへらちょんぺさん、そしてライターのカーツ佐藤氏を交えての、かなーり豪華な対談が実現することになりました。この模様は12号のメインに据えました。
ケラさんに関しては、私も「有頂天」はじめナゴムレコードのバンドは好きなものが多く、またニッポン放送で土曜の夜に放送していた、ケラさんと犬山犬子がパーソナリティを務めた「四次元ラヂオテクノスケ」は大好きな番組でした。そんなケラさんにこんな形でお近づきになれるとは。
後の話ですが、ケラさんは演劇関係の活躍が目覚ましく、99年には岸田國士戯曲賞を受賞、18年には脚本家・演出家として紫綬褒章を受章したりしています。
実は「大恐慌劇団」には唐沢俊一さんも注目していて、へらちょんぺさんらがもっと売れるようにプロデュースしようと買って出ていました。そこらのお話を伺いたく唐沢さんにインタビューを行います。これを機会に唐沢さんには色々とお世話になることになります(但し今は絶縁状態)。
■「イカ天」終了後の音楽シーンの中で、若手の活躍の場、というより勉強会的に行われていた「デモテープギルド」というイベントがありました。主催者は「京浜兄弟社」の岸野雄一さんで、オムニバスアルバム「誓い空しく」が発売されたこともあり、ここでインタビューをさせていただきました。
バンドブームの前、岸野さんは渋谷にあったアンテナショップ「CSV」で働いていたとのこと。CSVは私もしょっちゅう足を運び、本間雄二さんのコピー本や、佐野史郎、嶋田久作らのバンド「タイムスリップ」のテープを購入したりしていましたが、CSVはまた「ヒルダ」というオムニバスのカセットブックを出しており、インディーズ初心者だった頃はそこからの情報にお世話になっていました。岸野さんはその「ヒルダ」にも関わっており、その延長線上に「デモテープギルド」や「誓い空しく」があるらしい。
このインタビュー、今読み直してみると色々と興味深い裏話がありますが、同じ12号で対談を掲載させてもらったケラさんも読み、「あまり会えなくなった岸野君のインタビューを読んで何か得した気分になった」といった旨の感想を送ってもらえました。当時のことを思い出して面白く読んでもらえたようです。
■この号では、あと、「マンスリーよしもと」の編集人で「上方漫才血まつり」を主宰した仲谷暢之さんと、マンガ家の青木光恵さんにインタビューさせていただきました。
ここで青木さんが出てくるのは突飛に思われるかもしれませんが、彼女は「みぢかちゃん新聞」というフリーペーパーを仲間と共に作っていて、10号で取り上げた、保山さんや吉村さんあたりの「モダチョキ」につながる人脈上にあり、実際「モダチョキ」ファンで濱田マリちゃんとはこの時点で仲良しだったようです。
12号の後半の硬派企画では、古代の渡来人による影響を探ってあちこち歩き回るレポート。故・金達寿さんの著書「日本の中の朝鮮文化」に影響されたもので、正直、この金さんの著書はちょっとアレなところがあるのですが…まあ、まず間違いのないレベルのところで、東京都の狛江、埼玉県の志木や新座、日高町の高麗、神奈川県大磯の高来神社などをとり上げました。
こんな感じで、12号の発行が92年の3月です。
ちなみに、「美少女戦士セーラームーン」の放送開始がほぼ同時期です。そんな時代、そんな時期。
■「啓蒙~」は14号まで続きますが、ページの都合上今回はここまで。
今回この文章を作成するにあたり、当時の資料などかき集めて読み直したりしましたが、資料は体系的に整理出来ておらず、アタフタしてしまってなかなか大変でした。
データがネットにあがっていて検索すればスッと出てくるような状態であればよかったのですが、私が当時インタビューして根掘り葉掘り聞いた内容はネットには殆んど上がっておらず、ネットはあんまりあてにならないなあと思ってしまいました。これは自分の持つ資料の整理がてら私がネット上にアップしなければならないか。
「川本耕次に花束を」や「鬼畜系サブの形成過程における制作者の役割に関する実証的研究」などの著作がある若手のマンガ史研究家?の虫塚虫蔵さん、彼の活躍は目を見張るものがありますが、色々な研究調査課題を一人で背負い込まざるを得ない状況を傍から見ていて、手助け出来ない我が身が歯がゆく心苦しいです。
コミケには何十万人も集まるとオタク文化を誇るオタクは少なからずいますが、虫塚さんがもう少し休めるくらいに、その中から自分らオタクの先人が築いてきた文化の記録を書き残す人が出てこないものかと、少々苛立たしく思っています。
オタクを自称する人の中にはフェミニストやポリコレの藁人形を叩いて嗜虐欲求を満たそうとするだけのような輩も散見しますが、本当に無駄で馬鹿々々しい。ちょっとは人の役に立つことをやればいいのに。そっちの方がオタクの評価向上や表現の自由の維持に貢献出来ますよ
まんだらけweb読「ヘミニマ」連載の堀内満里子さんの「女相撲★どすこい巡業中!」の単行本が発売。まんだらけ各店と全国書店(こちらは注文で)で、1980円+税で買えます。これはぜひ一家に一冊。