時代と社会を丸ごと切り取る「ベルリン一九二八 - 一九三三」
二〇二三年に邦訳された海外コミックのうち、わたしがもっともスゴイと思ったのは、ジェイソン・リューツ『ベルリン 一九二八ー一九三三 黄金の二〇年代からナチス政権の誕生まで』(鵜田良江訳、パンローリング、四五〇〇円+税)です。
B5判、モノクロのソフトカバーですが、約六〇〇ページ厚さ四センチメートル超で、枕なみに厚くかつ重い本。わたしいつものように寝っ転がって腹の上に本を置いて読もうとしましたが、無理でした。
ドイツ帝国は第一次大戦のさなか、革命によってヴィルヘルム二世が退位。戦争集結後、一九一九年にワイマール憲法が制定されワイマール共和制に移行。以後ドイツは「黄金の二〇年代」と呼ばれる時代を迎えます。
敗戦後の貧困が社会を圧迫するいっぽうで、四百万人をかかえる首都ベルリンでは前衛的な芸術や、享楽的かつ退廃的な娯楽が花開き、しかも政治的にはナチスが台頭してくるという、混乱の時代が到来します。
『ベルリン 一九二八ー一九三三』のお話は、一九二八年ベルリンに向かう汽車の中で始まります。ケルンからベルリンに向かうマルテ・ミュラーと、雑誌記者クルト・ゼフェリングが出会う。コンパートメントにはもうひとり、ナチスの腕章をつけた男が居眠りをしている。そういう時代です。
クルトは「ヴァルトビューネ(世界展望)」誌(実在)の記者で、編集長カール・フォン・オシエツキー(実在)のもとで働いています。クルトが取材するのは共産党とナチスの暴力的な衝突です。
マルテは画学生となるためにベルリンにやって来たのですが、じつはそれほど絵に没頭してるわけではありません。ブルジョア資産家の娘(二十九歳)が、田舎がいやで逃げてきた、というところです。彼女の弟は第一次大戦で戦死しています。マルテはクルトと同棲したり、同性の恋人アナと遊び回ったり、薬とセックスの地下パーティに溺れることになります。
クルトのかつての恋人マルガレーテは貴族の娘です。ベルリンの夜の部分を代表するような遊び人でマルテを誘惑します。のちに彼女は自身の財産を守るためヒトラーに接近します。
いっぽう裕福なユダヤ商人の息子、ダーヴィトは、学校をサボって共産党機関誌を売っている。もちろん父親は、ユダヤ人が目立つことをするんじゃないと彼を叱ります。ダーヴィトの家に一時ひきとられることになる少女ジルヴィアは、ナチス支持の父親と共産党シンパの母親の娘。父母が別居したあと、母親は一九二九年の「血のメーデー事件」で死亡。その後ジルヴィアは浮浪児として生活していました。
マルテのいる画学校でヌードモデルをしていたポーラは、カバレットの歌手でもあります。彼女はアメリカから来た黒人ジャズマン、キッドと恋に落ち、パリへ向かう。第一次大戦の兵士だった警官レムケは、民衆を抑え込む自分の仕事に苦悩する。などなど、登場人物やエピソードはきわめて多彩です。
本書の作者ジェイソン・リューツは、ドイツ出身かと思えばさにあらず。一九六七年生まれのアメリカ人。「FANTAGRAPHICS」社の雑誌でアートディレクターをしながら、オルタナティブ・コミックを発表していました。本書は一九九六年から描き始められ、二〇〇〇年に第一巻が「DRAWN & QUARTERLY」社(カナダにあるオルタナティブ・コミック系の出版社。エイドリアン・トミネとかダニエル・クロウズとか辰巳ヨシヒロなどの本を出してます。北米のオルタナティブ系なら、ここと「FIRST SECOND」社、「FANTAGRAPHICS」社が有名ですね)から発行されました。以後二〇〇八年に第二巻、二〇一八年に第三巻が出版され完結。じつに二十二年かけて完成された本です。本書は英米やドイツでも絶賛され、二十カ国語に翻訳されたそうです。
ちなみに本書では、ナチスを示すハーケンクロイツが第三部の後半まで描かれていません。その代わり、黒地に白い丸が描かれ、あえてカギ十字が省かれている。最近のヨーロッパ作品ではよくある表現だそうですが、ナチスの扱いに敏感な欧米だからこその手法なのでしょう。
リューツの絵はアメリカンコミックというよりヨーロッパのバンド・デシネに近い。「タンタン」のエルジェに代表される、人物も背景も等質な線で描くリーニュ・クレールを意識しているようです。また人物の造形、ファッションや建物は、当時の写真や絵画を参考に、正確かつ緻密に描かれています。
訳者によると、ワイマール共和国時代は戦後のドイツでは長らくタブー視されてきたそうです。むしろアメリカで多く紹介されてきており、アメリカ人だからこそ、この作品を描くことができたのだろうとのことです。
本書は多くの登場人物の人生の断面をスケッチし、その集合でワイマール共和制末期の時代と社会をまるまる活写しようとする壮大な試み、これを成功させた作品となりました。
市井の人々の体験を絡めて大きな歴史を語る作品は、日本マンガにもありました。手塚治虫『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』やバロン吉元『柔侠伝』が思い浮かびます。海外作品にもここまで大きくかつ緻密に完成された作品が出現してくるとは。シーケンシャル・アートは世界中で進歩を続けています。
お話は終盤に向けてさらに悲劇的になっていきます。タイトルにもなっている一九三三年とは、ヒトラー政権が誕生したとき。そこに向けて登場人物たちの人生も変化しています。
マルテの父母は世界恐慌のあおりで破産。クルトの上司、オシエツキーは反逆罪にて収監されます。のちに彼はノーベル平和賞を受賞した直後、再度の拘留中に獄死することになります。クルトは酒浸りの日々。ダーヴィトの一家にはユダヤ人排斥のいやがらせが始まり、ジルヴィアはダーヴィトを誘い、ナチス支部に放火しようと計画する。しかしそこはジルヴィアの父親と幼い弟が属するナチス支部だったのです。
物語はマルテがベルリンを離れ、ケルンに帰るところで終わります。ただし読者であるわたしたちは、その後の歴史を知っている。登場人物たちは架空の人物ではあるのですが、彼らのその後を考えずにはいられません。そういうことを思わせるのも、作品の力です。
キャンディ典全史
ライフワークを持つ人は、幸せだと思います。
女装界のレジェンドと呼ばれるキャンディ・H・ミルキー氏にとってのライフワークは、少女漫画「キャンディ・キャンディ」の復活・保存を目的とするコレクション展示「キャンディ展」です。
作品は昭和50年4月から同54年3月までの4年間「なかよし」(講談社)に、水木杏子原作・いがらしゆみこ作画で掲載されていました。
同作は水木・いがらし両氏の「著作権裁判」により、現在「絶版・廃版」という不毛な状況です。
連載開始の翌年からアニメ化放送がされ、多数のキャラクターグッズも販売されました。
作品は世界各国で、翻訳版の出版及びテレビ放送がされるほどでした。
キャンディ氏は「読者権の侵害」を主張しています。
作品は作者が生み出したモノかも知れませんが、読者の存在なくしては意味がありません。
不思議なことですが、氏の女装名「キャンディ」の命名は、作品とは関係ありません。
女装会館「エリザベス」の来館時に、会館スタッフの求めから決めたそうです。
大半の女装者が和名だったので、片仮名を選んだ結果でした。
氏の作品との出会いは原宿の歩行者天国で、イタリラの漫画青年と出会ったことに、起因しています。
通称「ホコ天」は、美濃部都知事と秦野警視総監の発案で銀座や新宿、浅草、池袋で始まり全国に増加しました。
原宿のホコ天は70年代後半には、若者文化の拠点となり路上で踊る「ローラー族」やブティツク竹の子の服を着て踊る「竹の子族」が現れました。
和裁職人の母を持つキャンディ氏自制のフリフリ衣装姿を見て、漫画キャンディのコスプレキャラ女装と思い、イタリア漫画青年は声を掛けて来たみたいです。
この当時の氏は、作品名を知っている程度だったらしい。
イタリア漫画青年は日本の漫画を、一年間限定で勉強に来ていました。
氏とイタリア漫画青年は意気投合し帰国までの間、月一ペースで会っていたそうです。
板橋にある彼の部屋には、本の他にも多くのキャンディグッズがあり、飲酒を好まない二人ゆえに会話が
弾んだらしいです。
彼から影響を受けた氏も全巻を揃え読み、暴力シーンもなく子供には、いい作品だと納得します。
グッズも彼の影響で集め始めると、エリザベス会館の来館メンバーが鉛筆やハンケチ等の小物を、持って来てくれました。
氏のグッズ収集はヤフーオークションで、一日5回、五百円入札方式を駆使しての落札でした。
現在、膨大なグッズは茨城県鉾田市にある一軒家に、収納されています。
「キャンディ展」を始めるきっかけは、この一軒家に知人が子供達と海が近い所なので、海水浴目当てで遊びに来たときでした。
子供達がこのグッズを大変面白がったそうです。
ならば「都内で展示を」と思ったそうです。
本格的な展示は平成20年秋に、秋葉原のメイド喫茶内の6畳二間仕切りカーテン控室での開催です。
ここはネットで知り合った氏と同じく蒲田在中の塾講師兼イベントプロデュサー氏の紹介でした。
秋葉原という土地柄、人出が多い。
「キャンディ・ミルキィの部屋」の看板のみで、一日の来館者数が百から二百と好調でした。
特に外国人の来店が目立ったそうです。
開催期間は10日間です。
「金もない、著作権の事も判らない。でも、とにかくやっちゃえ!」と第1回キャンディコレクション展はスタートしました。
女装コスチュームでのチラシ配布は、万世橋警察署
の許可を取っています。
この事で、私服警官に守ってもらえる立場に、なるそうです。
翌年の秋には、前出の一軒家がある茨城県鹿島郡大洋村(現・鉾田市)が、開催地となりました。
この一軒家は50坪の敷地があり、ネット公売で当時52万円で落札しています。
コレクショングッズの量は膨大で、展示会の度々にトラック一台で、運送するほどです。
とても自宅で保管できる量では、ありません。
開催場所は賃料が発生しない、市の図書館内イベントホールに申請し即、決まったそうです。
ところが、コレクション展示を見て館長は、聞いていた話とイメージが、違うと苦い表情になりました。
展示を見た地元議員の「なかなか、いいじゃないか」の評価に、館長は「これからもこうした形で、どんどんホールを利用していく方針です」とニコニコ顔になったみたいです。
立地的に市役所、高校が二校、議会に中央公民館が近くにあった点もあり、来展人数が千人規模と好況でした。
特に氏が本格的な広報活動はしていません。
ただ、地元の茨城放送が30分でのラジオ番組を、組んでくれました。
番組内容は前半15分が漫画「キャンディ・キャンディ」の現状を、後半は氏への電話インタビューです。
更に読売新聞の茨城地方版に記事が出たことで、集客効果になったと氏は語っています。
来展者の多くが「懐かしいから見ていた」の声でした。
3回目は?「何処でもいいよ。蒲田だし近いから」と「お好み焼き屋」に決まります。
平成22年の春で、紹介者は第1回のメイド喫茶の御仁です。
四人座れる二畳半のボックス内四面にびっしり、天井まで展示しました。
お店の三日間限定でのサービス展示です。
お客さんが「面白いのをやっているネ」と見に来ている様子でした。
何処から知ったのか?TV「[ミヤネ屋]が、柳沢慎吾を連れて来ています。
警察無線をマネする柳沢ですが、撮影車が停車したため、実際のパトカーが数台集まりました。(笑)
宣伝効果的には、展示終了後の放送だったので、集客効果には繋がりません。
氏は『キャンディ展』の存在を、知ってもらう効果はあったろうとの納得でした。
第4回は同年秋の開催です。
会場は、神奈川県藤沢にある官能小説家の睦月影郎氏の自宅兼喫茶の『睦月堂』になります。
江ノ電石上駅目の前です。
睦月氏主宰の『日本軍歌を唄う会』の集まりに、キャンディ氏は出席していました。
バイクで『睦月堂』に来ていた時、「キャンディ展をやる会場を探している」と話すので「良かったら、ここでやらない?」で決まったみたいです。
展示期間は二週間、一日10人程の来展でトータル百数人です。
来展者の多くは、出版関係者と漫画家協会の人達でした。
翌年の秋には、川崎市にある若宮八幡宮・金山神社参集殿が、第5回展の会場に決まります。
宮司とキャンディ氏は、同神社の『かなまら祭』に『エリザベス神輿』が初参加した際に、知り合っています。
昭和63年から4月の第一日曜日には、エリザベス女装『御神』輿半纏集団が、練り歩いていました。
展示会場の件を宮司に話すと「場所で困っているのなら、ウチの社務所を使っていいよ」と決定します。
会場は広く、グッズ五百点超の展示とアニメ全115話の連続上映という大きな規模になりました。
期間は当初二日でしたが、宮司奥方の計らいで三日に拡大します。
地元ミニコミ誌の紹介で、神社近所の人や商店街の人達が見に来てくれました。
こうして見てくると『キャンディ展』は「人の縁」で成り立っていると思います。
平成24年3月が第6回展です。
会場は蒲田の学童保育『じゃりかふぇ』で、子供相手の展示でした。
期間は6日間で、紹介者は第1回、第3回の蒲田在中の御仁です。
『キャンディ・キャンディ』の漫画が描かれたオモチャやカルタを展示して、子供達にさわって遊んでもらうつもりでしたが、案外に乱暴に扱うことなく壊さないように、気をつかっていたみたいです。
キャンディ氏の口から「大田区教育員会、社会教育、生涯学習関連」等々のカタイ言葉を、耳にしました。
氏は『御上』の公認を得たとご満悦の様子でした。
コスプレキャラ女装者が主催する『キャンディ展』
が、公的な機関に承認され開催されることに、意義を感じたのでしょう。
同年9月、再び藤沢市の『睦月堂』で第7回展が開催されます。
今回は神奈川新聞と夕刊フジに東スポの三紙が、記事を掲載してくれました。
夕刊フジと東スポは『睦月堂』の睦月氏を紹介してくれた記者が、記事を担当しています。
『キャンディ展』が各種メディアに紹介されるのも、キャンディ氏本人のテレビ出演が50本を超えることが、功をなしていると思います。
第8回は平成25年の春に『麻布ギャラリー』での開催でした。
日本漫画家協会参与の大石容子氏が『麻布ギャラリー』で展示会を開催した時に、キャンディ氏は訪れています。
大石氏から協会員と一緒なら安く借りられると聞き、協会員の漫画家と共同展示の形で、第8回展を開催しました。
同年8月、渋谷の東急ハンズ近くにあるパークビル4階イベントカフェ『エリゾン』にて、第9回展が開催します。
ここはカフェなので食事もでき、お酒も飲めます。
オーダーすると『キャンディ展』に、ひっかけた料理が出されました。
キャンディ展の常連さんは顔見知り同士で、話に花を咲かせている模様でした。
ちなみに、この会場は麻布ギャラリーの来展者からの紹介だそうです。
まるで尻取り法のように、会場が決まる感じです。
10回目の区切りは、再び『麻布ギャラリー』が会場に決まりました。
平成26年2月の開催です。
会場では氏の三男さんの姿を、見かけました。
開催の手伝いを、しているのでしょう。
1・2回目は年一回ペース開催の『キャンディ展』も、年二回ペースになっていました。
平成27年の第11回展から13回展までは、前出の『睦月堂』で毎年9月に、一週間程度の期間で開催しています。
期間中は通常客への配慮から、『キャンディ展』専用店舗として対応でした。
『キャンディ展』の打ち上げには、この時だけに顔を出す人もあり、大騒ぎだったと氏は楽しそうに語っています。
睦月堂の店長は「展示品を持って来るのが大変、常設だとその苦労から解放される」と話していました。
その常設展示場が、葛飾区柴又の喫茶『セピア』内に平成29年12月に『キャンディ博物館』としてオープンしました。
陸奥A子展開催の『弥生美術館』に、店主が来館した時、氏も『キャンディ・キャンディ』の展示が、多少あると聞き足を運んでいます。
店主と氏は意気投合し、展示への話になります。
まずはお試し展示からのスタートでした。
オープン当初は好調でしたが、コロナの影響を受けたみたいです。
現在は氏の在館日、土・日二日間だけの開館です。
氏は一度だけ、作画担当のいがらしゆみこ氏に会っています。
氏が日本漫画家協会の展示会へ出向いた時に、漫画家協会会長のちばてつや氏から『キャンディ展』を含む作品への活動に対し、「漫画家冥利につきる」と言われたそうです。
いがらしゆみこ氏も協会の理事をしております。
10回展の頃に、氏のフェイスブックをチェックしたらしく、いがらし氏の東京事務所社長から電話がありました。
いがらし氏本人と事務所社長に社員スタッフを含む5・6人での会食でした。
『キャンディ博物館』には、外国人観光客も顔を出します。
翻訳機能を使用しての会話に、氏は応じています。
海外では中古品ルートで、作品関連を手にしているようです。
館内に来ると「欲しい♥売ってないのか?」と聞かれるみたいです。
氏は肺炎系の難病を患っています。
余命宣告余を受けているので『キャンディ博物館』の継続後任を考えているようです。
氏のライフワーク『キャンディグッズ・コレクション』の継続継承を願います。
(第8回・おわり)
2023年12月31日発行
2024年 2月 8日 Web版UpDate